朝からずぅーっと雨でしたね。
その分、花粉・黄砂・PM2.5は雨粒に吸収されて、空気中への飛散量は減っていたようです。
さて、もったいぶっていた真弓山 長弓寺の後篇です。
昨日は宝光院地蔵堂、法華院、円生院と脚を進めましたので今日は本堂へと登ります。
登りますというのは御本尊に上がるという意味もありますがやはり緩やかな登り坂になっている
から、本当に登って行きます。
円生院側から亀池の横を通って行き階段を昇ると建物自身が国宝に指定されている本堂が
正面に広がります。
棟木銘から弘安2年(1279年)に建立されたとわかる入母屋造・檜皮(ヒワダ)葺の建物に
鎌倉時代の新和様の典型的な建築といえる、和様を基調にしつつ扉(桟唐戸)・頭貫(かしらぬ
き)の木鼻(用材の端部に装飾彫刻を施す)の意匠などには大仏様を採り入れてあります。
本尊として黒漆厨子に安置されているのは平安後期の一木造の像で、目のつり上がった個性的な面貌や奥行きのある体躯などに古様が残る木造十一面観音立像です。
時に神亀5年(728年)、聖武天皇が28歳の頃だと伝えられています。本尊十一面観音の頂上の仏面は、聖武天皇の弓の柄で彫られているという逸話が残っています。 平安時代には、桓武天皇の頃、藤原良継が伽藍を整備し丈六(じょうろく)の阿弥陀、釈迦、四天王を安置して崇敬されました。
西側には大師堂、東側には宝蔵や事務所がありました。
鐘楼の鐘は まゆみの鐘 と呼ばれています。(志納金を納めればいつでも衝けます)
本堂前の境内から石段を降りて左側には天平18年(746年)の長弓寺創建にあたり、鎮守と
して牛頭天王を大宮、八王子を若宮に祀ったという伊弉諾神社(イザナギ)があります。
江戸時代まで寺僧の第一臈が神職を務めたそうです。
また、文明6年(1474年)の火災の記録があります。境内には桃山時代の石灯籠がある。
祭神は伊弉諾命〔いざなぎのみこと〕、素盞嗚命〔すさのおのみこと〕、大己貴命〔おおなむちのみこと〕です。
参拝して本堂と反対側に降りて行くと4つ目の塔頭;薬師院となります。
こちらの御本尊は阿弥陀如来様です。
こちらには御神籤がありました。
4つある塔頭のうち円生院、薬師院は宿坊や精進料理の振る舞いがあります。
タイトルの奈良を観光すべしというのは かなりオーバーな意見かも知れません。
今までの社寺仏閣もそうですが、生まれ育った大阪に居た時分は歴史なんてことにも
何の興味もなかったのに、奈良に来てボツボツと周っているうちにその社寺の由緒や
歴史を知って行き、日本書紀の記述や邪馬台国から飛鳥時代、藤原宮から平城京
へとのれきしや政治の背景がうっすらと見えて来て、とても興味が湧いてきました。
でもそれも誰も本当のその時代を見てきたわけでもなく、物的証拠の積み重ねで
推理してきたことばかりです。
発掘調査やX線写真によって裏付けもされてきていることも多いですが、新しい発見が
あったりするとゴッソリひっくり返されることもあり得るわけです。
歴史学者になる気もありませんがそんなことを少し知って来るとワクワクしてきます。
仏像一つ見ても奈良時代より前のものは落雷や戦火、権力者の焼き討ちなどに遭って
あまり残っていません。
それでも形を線を見ただけで平安・鎌倉・室町・江戸と創られた時期を推測できる。
そんな説明を何の責任もなくただフーンと聞いていられるのも楽しいと思いました。
この長弓寺の建てられた由緒や途中の変遷など、ブログには書かない部分もいろいろと
知りました。
各時代の世相や流れはその時代の土地に行って知ることが大事だと思います。
だから多くの人々に奈良を(も)観光して欲しいなと思いました。