20160723 松本市現業労働組合清掃ボランティア
(動画あります)
昭和59年夏、伊那の歌舞劇団「田楽座」の公演にあわせて青年会が発足した。岡田では青年団活動が昭和42年位まで続いていたが、その後出張所に旗だけが残っていた。当初、田楽座の公演を実行委員会で引き受けるつもりで準備をしていたが、この際「青年会」をつくって、青年会主催でやろうとなってきた。この田楽座のチケットを岡田の中を青年会でチケットを売って歩いた(何日も何日も仕事が終わってから出張所に集まり、チケットを売りに歩いた)。この経験が、後で夏祭りの協力券を売ることにつながった。そして、田楽座の舞台の幕間に青年会の出番があり、男は顔を黒く塗ってパフォーマンスをやり、女性は「岡田音頭」を踊った。とにかく田楽座の公演は成功し、青年会の活動がはじまった。田楽座の太鼓の演奏に魅せられた青年会のメンバーは、それから毎週1回伊那の富県にある田楽座まで太鼓と笛を習いに行った。夕方6時頃出発し、田楽座に着けば7時30分、それから9時まで練習し、岡田に帰ってくれば夜中だった。この練習の成果を発表したのが翌年の60年5月5日の岡田神社と伊深神社の例大祭だった。演目は「ぶちあわせ太鼓」と「寄せ囃子」。青年会の活動は、それから市青連にオブザーバー参加し、演劇や合唱、郷土芸能として太鼓の練習を続けた。太鼓の練習場所には困った。出張所でやっていたが下手なのでうるさがられ、田溝池の植物センターを借りることになりありがたかった。そのうちに、岡田には岡田神社と伊深神社があるが、岡田中が集まるのは運動会だけだから、岡田全体のお祭りをやろうという声があがってきた。どうせならでかく花火をあげよう、真下から見上げる花火をあげようと燃えた。第1回目は、昭和61年の夏、500円の協力券を作り、またまた青年会で岡田中にチケットを販売して回った。花火のスポンサーのお願いにも歩いた。お祭りの準備も忙しかった。舞台は、仲間のトラックを借りてきた、中央にやぐらを組み、協力券の引き替えに「うちわ・かき氷・花火」を配ることに。屋台も出して、豚汁、金魚すくい、わたあめの販売。岡田希望の家と交流し、一緒に「夏祭り」の塔もつくった。保健補導員会の協力で一人暮らしの高齢者のふれあい夕食会もおこなうことに。とにかく、青年会がいろんなみなさんの協力をいただきながら、準備をして夏祭り本番を向かえた。第1回目の会場は小学校の南側のグランドだった。本当にみんな集まってくれるのか心配だったが、夏祭りは盛況だった。最後に、みんなでカウントダウンをした。「5,4,3,2,1,0」「ヒュルヒュル…ドーン」と花火の大輪が開く、みんなが岡田の夜空を見上げていた。老いも若きも、障害を持った仲間も、みんなが花火を見上げていた。最後にあがったスターマイン。しばらく余韻に酔いしれていた。やってよかった。翌年は、岡田神社が太鼓を新調し自前の太鼓も加わった。さらに2回目からは、町会連合会や社会福祉協議会など地区内の団体の皆さんと実行委員会を結成して開催することになった。各地区公民館はそれぞれ工夫した屋台を出してくれた。舞台では、大声大会、米俵投げ、長靴飛ばしなど笑い声が響いた。そして、最後にあがる花火。確か2回目には、希望の家に16ミリの映写機を贈ることも出来た。「ドーンとあがる花火、ドーンと胸に響く、ドーンと岡田中に広がった」夏祭りのように思う。