こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

グリーンロードファーム

2018-05-07 20:35:43 | 食・農業

 

松本市岡田下岡田塩倉にある荒廃地で、オーナー制度を導入してアンズを育てています。年によって沢山なったり、虫にやられたりします。私も一本参加をしていますが、今年は最初の写真のように鈴なり状態で、摘果をしました。実と実の間をおよそ5センチくらいはあけて摘果します。どうか沢山収穫ができますように。

運営しているのは「グリーンロードファーム」といって、地元の有志の皆さんが中心に、草刈り、摘果、消毒などをおこなってくれています。今日は作業の後、総会が開催されゲストとして参加させていただきました。終了後は、懇親を深める焼肉大会となりました。

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5.3本気で止める戦争!中信市民大集会基調講演 柳澤協二さんの講演録

2018-05-07 03:47:23 | 憲法・平和・沖縄

本気で止める戦争!中信市民大集会基調講演

柳澤協二さん講演録(文責:中川博司)

 

 

1、「戦争とは何か?」「平和とは何か?」

  

本気で戦争を止めるというのは非常に大事なメッセージだと思います。安倍総理だって憲法改正に本気です。そのために政治生命をかける、あるいはご自分の健康が害されても構わないというぐらいの決意でやってきています。私が親しくしている野党の政治家に「あなたにその覚悟がありますか」と聞いたら、「いや僕にはないね」って、「だから勝てないんだよね」と話をしました。

 本気でとめるというのは、しっかり力がかみあわなければなりません。しからば止めようとしている戦争とはいったい何なんですか。止めることによって実現しようとしている平和とはいったい何なんでしょうか。そしてそのためにどういうコストを覚悟しなければならないのでしょうか。

 楽して横着してできることは世の中にはありません。60才、70才をすぎてようやくわかってきましたが、思うように世の中いかない。相手だって思うようにいかない。

 やがて、安倍総理大臣ではなくなっても、アベ政治を継続するか、違う政治にするかということが本質です。今は「アベ政治許さない」「安倍改憲反対」でいいかもしれないが、どのような政権になっても、国会がどのような議席配分になっても、あるいは憲法が変えられても、一番の究極の目的は何か。戦争を止めるということです。そのために、すべての行動が向けられなければいけないし、ンこり少ない人生もそこに向かって意味のあるものにしていかなければならない。

 今の若い人たちにどういう話し方をすれば、通じるのか。分かれば何も苦労はありません。

 国の姿が変わりつつあります。国を背負っていくのは自分の子どもたち、孫たちの世代になります。彼らは彼らなりに年を経て、色んな事を苦労して悩み抜いて結論を出していきます。その時に私たちが70年生きてきた智恵で、30、40の子どもたちに「それは違う」と言うやり方はダメでしょう。自分で苦労して身に付けていくものが本気で本物の智恵になっていく。

 ひとつひとつの選挙を見ていれば「もう、やってられないや」という気持ちになる。私の子どもたちから言われる。「お父さんの話を聞きたいという人が全国にいるんだったら、やってられないとふてくされている権利はない」と言われた。

 だから、今結論を出すのではなくて、この国がずっと続いていく、そして戦争を止めるということは課題として残ります。それを子どもの代、孫の代が引き継いでくれるようなメッセージ、あなたの親父、あなたのじいじいは、何を悩んで何を伝えようとしていたのかといういことを、彼らが苦労して気づいてもらえるために、何を残せるのか?ということが大きな目的であり課題です。

 私の家族は「お父さんも安倍さんのおかげで老後の生きがいが見つかってよかったね」と言われます。まさに、その通りです。今日、お話したいことは「安倍を止めろ」だけれど、その先にある安倍を止めたって止まらないものがある。その歴史の歯車の動き、世の中の変化、そういうものにどう向き合っていくのか、その一つとして戦争をどうやって止めるのか、そのために戦争というものと本気で向き合っていくのかということをテーマにお話をします。

 今、戦争が終わって70数年がたちました。去年は毎日のように北朝鮮がミサイルをうった、核実験をしたというニュースがあって、おそらく日本人がもしかしたら戦争になるかもしれないという不安を感じている時期だと思います。だからミサイルが飛んできてJアラートが鳴って机の下に隠れます。日本は災害が多い国なので、何かあった時のために備えるということは大切です。でも地震とミサイルは違います。地震は人の意思では止められませんが、ミサイルは人の意思で止めることができます。つまり戦争は止めることができるのです。だから止めるためには戦争とは何なのかということを分からなければならないのです。

 安倍総理も戦争をしたいとは思っていません。戦争はいやだ戦争は怖いと思っているから、戦争を止めなければならない。そのために二つのやり方があります。安倍さんのやり方は、相手より弱いからやられてしまう、だから相手より強ければ、相手が恐れ入って戦争を仕掛けてこない、だから平和になるという、抑止力の発想です。力によって戦争を止めようという発想があります。これが今の政府のやり方です。抑止力というのは、相手が戦争をしようとしてくれば、「やるならやってみろ、倍返ししてやるぞ。それがこわかったらやるな」と、相手より強い力で威嚇することで戦争をしようとする意思を抑え込もとする力の論理です。しかし、相手だって自分が悪いと思っていないので、相手も強くなろうとする。強くなった相手をさらに抑止しなければならないので、さらにこちらも強くしなければならない。永遠に力比べが続きます。昔は低いレベルで対立していたのが、高いレベルで対立する。振り返ってみると何も心配はなくなっていない。論理的に考えれば当然の帰結で、これを「安全保障のジレンマ」と言っています。自分を守るために、自分は努力しているのに、相手はこっちをやっつけるために軍備を整えていると思う。そして、相手の強硬な姿勢を誘発して危険な状況になっていく。これは相手があることですから、自分のことだけではなく、膨らんでいくそういう性質をもっているお互いの国家関係になるわけです。

果たしてそういうやり方がいつまで続くのかということです。国家は武力という暴力装置をただ一つ持てるものです。“戦争とは、国家が自らの意思で武力をもって他に対して自分の意思を強制すること”です。それが戦争であり、威嚇ということです。それを防ぐために、こちらがもっと強くなって、やってきたら倍返しにするぞという威嚇をもって、脅すことによって止めるのが抑止という考え方です。それが力の連鎖を果てしなく続けていくことになります。それで戦争が起きていないからと言って、それは平和であるか考えなければなりません。

 では平和とは何でしょうか。安保法制のことを政府は平和安全法制と言います。反対する人達は戦争法と呼びます。どっちが本当でしょうか。どっちも本当なんです。安保法制というのは、日本がアメリカと一体化して、相手よりもより強い力を持つことによって、相手の戦争を抑え込もうとする抑止の発想に立っている、力の論理に立っている法律であるが故に戦争ができるようにすることで相手より強くなろうとするという意味では戦争法です。それによって相手が戦争をしないようにする、少なくとも主観的にはそういう思いでやっているがゆえに、こちらが強ければ戦争にならない、つまり平和安全法という呼び方もある。同じ力の論理の、同じコインを裏から見たか表から見たかということになります。しかし、それが本当に平和か?本来の平和は相手と対立があるから、いつ攻めてくるのか分からないから、こっちも力を持つんだということをやっていれば、戦争の心配から抜け出せないということです。

 そもそも戦争になる国同士の対立を無くすことで、戦争になる心配をしなくてすみます。“平和とは、戦争の恐怖から解放されることです。戦争の心配をしなくていい状態”を平和というのではないのでしょうか。

 主権者たる国民はどういう平和を選ぶのかということです。力によって戦争を止めるのか、それとも戦争の種を無くして戦争の心配をしなくてもいいような状態をつくっていくのかが問われなければならないと思います。

 どちらもコストはかかります。戦争は、ただではできないし、典型的には命が失われます、敵であろうと味方であろうと。戦争をしないためにはどうするか、国家間の対立を無くすためには妥協するんです。妥協して譲歩して相手の言い分を聞くことです。それは、死なずに済むかもしれないが、国の名誉とか国の威信は失われてしまうのではないかということです。どちらの道を選んでも“ただではできない”。失うものがあります。

 どういう平和を望むのかという問いは、“本当に死んでも守りたいようなものとは何か”ということが問われています。それは政治が考えることではありません。一人ひとりの国民として考えなければならない根本的な課題だと思います。

2、「戦争は、どうして起きるのか?」

 戦争は社会の産物です。一人二人で戦争はできません。社会という背景があって、社会に充満している文化や雰囲気があって、その時代々々の対立関係があって、それを暴力で解決しようとして戦争になります。社会背景が戦争の性質を決めていきます。

 3千年前から“戦争の要因は三つある。それは富と名誉と恐怖”と言われています。これは古代ギリシャのトゥキュディデスの言葉です。

 トランプ政権は、アメリカ第一主義と言いました。「奪われた富をアメリカに取り戻す。アメリカを再び偉大な国にする。武力行使を含むあらゆる選択肢がある」と言っています。トゥキュディデスのいう戦争の三大要因を一人占めにしようとしています。この哲学では世界に平和はありえない。

 こうした戦争の要因を抱えているから、「富をいかに分配するのか、名誉をいかに分かち合うか、そしていかに恐怖を与えないようにするのか」が、戦争に結び付けないようにすることです。トランプ政権はその反対のことをやっている。

 今日の戦争は、現代的な社会の要因があります。昨年の清水寺が出している今年の漢字は「北」という字です。日本人は毎日テレビを見ていますから北という心配をします。私が心配しているのは分断と排除です。世界中で進んでいます。

 今、グローバル化の時代で、世界が一つのマーケットになっています。競争万能の金融資本がいかようにでも暴走するような、競争万能のルールの中で、世界が一つのマーケットになっています。自分の村ではこういう作物が取れたということがアイデンティティにならなくなっています。こういう社会で、果たして自分がいなかったらどうなるのだろうか、いなくたっていいよと、他にいくらでもいるよとなっていきます。みんな人間が画一化されていきます。そして貧富の格差がどんどん広がっていきます。いわゆる負け組となった者は、どうやったって這い上がれない状態になっていきます。いったい自分は何のために生きているのだろうという不安がものすごく広がっています。

 私が、子どものころから子育て世代のころには、公務員の初任給は安かったが、とにかく働けば自分もよくなり、世の中もよくなると確信がもてる時代に生きてきたと思います。今の若い人たちにはそれが見えなくなってきているのではないのでしょうか。

 朝日新聞のアエラの記者から、「この社会はリセットしなければならない。そのために戦争があった方がいいという意見がネット上にあるが、これはおかしいですよね」と聞かれた。この意見への批判を聞きたかったのかもしれないが、「僕らが考えなければならないのは、その子は戦争をしてでもこの社会をリセットしてほしいという強烈な不満や疎外感を表明している。それにどうやって寄り添っていくことができるのかを考えなければいけない」、そのために戦争だってありだということは間違った意見であることは本人だって百も承知で言っているのです。

 リセットは70年前にありました。日本は戦争に負けて、日本社会はリセットされました。その背景には日本人だけでも310万人の犠牲がありました。それだけ大きな破壊・損害を受けて、原爆も2発落とされて、東京も焼け野原になりました。そういう経験を経て社会がリセットされたのです。痛い目にあってリセットされるということもある。それはそれで後から逆に大事にしなければならにことです。少し話は飛びますが、今、簡単に憲法を変えた方がいいという人がいるけれど、日本国憲法は310万人の犠牲のうえに、日本自身が自分をリセットした姿としてできています。その歴史の痛みをどう感じているのかを本気で腹に落として考えていかなければいけないと思っています。

 今日の社会の戦争要因ですが、そうやって自分の居場所が分からない人たちは、どこに救いをもとめるのでしょうか?オリンピックで金メダルを取った子たちは「相手に勝つよりも自分ができることを精いっぱいやれるようにしようと思った」と言います。これはアイデンティティです。それだけの努力と自信の裏打ちがあって出てくる言葉です。たいがいの人は「あいつは悪い奴だ、だけど自分は違う」と、他者を否定して自分の居場所を見つけようとします。今日、ネットでつながっていて世界中のことがわかります。しかし自分のことはわからないんです。自分がいったいどんな人間なのか、人間としてどの程度評価されるべきなのかはネットには出ません。自分の内面のはなしは分からないのです。いろんな情報の中で自分の居場所を見つけようとして、「こいつは悪い奴だ」とすることが一番手っ取り早い。

これを国家全体でやっていこうと思うと、ナショナリズムという動きになっていきます。これが疎外されている感じを持っている人たちには受けがよく、国家が機能していないところでは、宗派とか部族とかの共同体が求心力をもって、自分のアイデンティティのシンボルになって、自分とは違うものを排斥していきます。

そのために何をしてもいいということになれば、暴力によって排除する、軍隊と同じようなものを持ってやるわけですから、それは戦争ということになります。今の世界の戦争要因は、金のために戦争をしたら損することはみんな分かっています。富というよりは裏返しの名誉です。名誉の裏返しである自己承認みたいなものを求めて対立が深まっていくところに今日の戦争要因の特徴があると思います。だから、ここでも攻められないように、こちらも武力を強くしていくのか、しかしそれでは解決しません。“解決のために必要なことは相手の存在を認めること”です。いろんな文化の違いを認める寛容性がないと問題の解決はないということです。

3、「戦争を誰が止めるのか?」

 戦争は誰がやるのか、国家がやる。政治が決めることです。これも戦争史の大家であるクラウゼビッツが「戦争は政治の目的達成のための手段である」と言っています。政治目的があって、それを達成するために、まずは交渉があります。協調と妥協では小さい成果しか得られないかもしれない、大きな成果を得ようとすれば、相手だって抵抗しますから、その抵抗を挫くために暴力を使う、これが戦争です。政治が決めるということが戦争の本質的な側面です。

 そのクラウゼビッツが言っている有名な言葉に“戦争の三位一体”というのがあります。戦争には三つの側面があります。一つは、感情を持った国民。国民の戦争は、敵愾心と憎悪の戦争です。もう一つは、軍隊の戦争。クラウゼビッツは戦争とは人類の事業の中で、一番錯誤と摩擦の多い事業であると言っています。それは相手もあることだし、大きな組織で動いているわけですから、末端の組織で勘違いや手抜きがあれば、それが全体に影響してしまいます。戦争は本当にバカではできない。思い通りにいかない大変な事業です。それを乗りきるだけのアートをもった軍隊が必要です。そしもう一つの側面、“戦争をやめる”という理性的に判断できる政府が必要です。国民、軍隊、政府の三つが戦争の中でいろんな顔をもって出てきます。

 19世紀は国民を一番動員した方が勝てる戦争でしたから、国民の感情を高めることが一番の大切でした。今日、そういう戦争はないかもしれないが、しかし国民世論が同意しない戦争はできません。だったら民主主義の下では、なかなか戦争にならないだろうと思うかもしれないけれど、アメリカだって民主主義国ですが、シリアを空爆しています。

なぜそうなるのか、民主主義の問題はまずは選挙です。みんな戦争は嫌だと思っているけれど、戦争の危機を煽れば、世論はそれに賛同してしまいます。プーチン大統領が、70%の投票率で、70%の得票で大統領に再選されました。あれは戦争の危機を煽っているわけです。イラク戦争を始めたブッシュ大統領への支持も70%を超えました。戦争の危機というのは選挙のスローガンとして、ものすごく有効です。つまりナショナリズムは国民の方も煽られやすいし、煽る方もやりやすいし、それが選挙の勝敗にも直結します。そこに民主主義のパラドクスがある。

私も野党の何人かには言ってきました。「とにかく戦争をしないために大事なことは、国民感情を鎮めることだから国家間の対立に対して、国民の皆さん冷静になりましょうと訴えることです」と。ただ、そんなこと言ったら絶対選挙に負けるけれど、負けてもいいからそういうことを言い続けなければ、本当の意味の戦争を止める対抗軸にはなりません。

現実の選挙は、そういうものですから、戦争の判断をする政治は選挙でえらばれる。だから結局戦争を止めるのは国民一人ひとりしかない。その自覚しかない。国民一人ひとりが投げやりになって、自分の不満を発散できればいいやということになって、いろんな情報に煽られる大衆になってしまうと戦争は止められません。しかし、一人ひとりが自分の頭で考えて、いまやっていること、ちょっと違うのではないか、何かおかしいのではないかという意識を持てば、そういう国民が増えれば戦争を止める力になります。結局、戦争を止める力は、主権者である国民の自覚しかありません。実は、戦争学の論理からも出てくるということを最近発見しました。

4、「戦争とどう向き合うのか?」

もう一つ申し上げたいのは、国家というおじさんがいて、鉄砲を担ぐわけではなく、戦場へ行くのは人間です。私は、この人間という要因を本当に考えなければならない、そして国民一人ひとりが他人ごとではなくて、一人の人間として戦争とどう向き合うかというときに、考えていただきたいことです。

 自分が人を殺したいから銃をもって戦場へ行くのだというのは犯罪です。国のために死んでもいいから戦場に行くのは戦争になります。そして国のために犠牲になった人は、大きな目的のために犠牲になった、それは英霊と讃えられて神として祀られる。死んでもいいというのは自己否定だけれども、その自己否定が究極の自己実現に結び付いていくという思想が社会にあったからできたということです。今の日本にはありません。その意味では日本社会は戦争ができない社会だと思っていますが、戦争ができないのだったたら、戦争ができるような法律をつくったらおかしいです。

 若い人と話していると「だって戦争になったら自衛隊の仕事だろ。自衛隊はそのために給料をもらっているのだろ」と言われます。それに対して「給料はいらないから自衛隊を全部やめたら誰がやるの、君行くのか」と聞いたら、「ぼくは行きません」って言うのです。つまり他人ごととして考えています。他人ごととして考えている限り、戦争と向き合えない、自分がやることではないと。

私も安保法制の議論の時に、「これをやったら危ないだろう、戦死者が出るだろう」と主張していたら、大先輩から「あいつは臆病者だ。しかしああいうことを考えなければいけない」と、旧軍出身の方の言葉をあとから聞きました。「ああ、そうだな、俺は臆病でいいんだ。だって自分は戦場に行かないんだから」。

どうやって戦場に行く人の犠牲に寄り添うことができるのか考えて、そこに自信がもてなければ、やはりそれは行かせてはいけない。自分が行く気がないくせに、おまえの仕事だから行ってこいというのは、臆病ではないかもしれないけれど卑怯という生き方だろうと思います。ひとりの人間として臆病であってもいいから、卑怯であってはならないということが私の原点です。

 官邸にいる時に陸上自衛隊がイラクで活動していました。すごく危ない状況がいくつもあって、本当に一人も死なないで帰ってきてよかったけれども、一人でも亡くなっていたら、自分はいったい何という言葉をご遺族にかけることができるのだろうか、いまだに自分に自信がありません。だからこそ一人も死んでほしくなかった。“あんなことを二度と繰り返してはならない”と私は思っています。

5、「北朝鮮」問題について

状況が少し変わってきていますが、北朝鮮のミサイル問題について去年の2月14日の予算員会で安倍総理が答弁した言葉が非常に重要だと思います。「北朝鮮がミサイルを発射して、万一打ち漏らした場合にアメリカが報復するんだ。それが確かなら北朝鮮は撃ってこない」と答弁しました。

これは何かというと、ミサイルは100%防ぐ技術はありません。だから撃たれる前にやっつけろという敵基地攻撃論が出てくる。しかし、トレーラーに乗って移動する発射台を100%事前につぶすことは不可能です。結局飛んでくる、完全には落とせないとすると、何発かは着弾します。だから、その時にアメリカが報復をする、だからこれで完璧な防衛構想が出来上がるんですということです。

しかし、ちょっと待てよと。撃ち漏らした場合っていうのは、日本に落ちているわけでしょ?そこに核弾頭が積まれていたなら、報復だの何だのと計算して成り立つからよかったね、なんて言ってる場合じゃないだろう。100%防ぐ手立てがなければ、飛んでこないようにすることが一番大事なことです。よく北朝鮮の脅威と言います。脅威とは何か?我々防衛の専門家から言わせると脅威とは攻撃する能力と攻撃する意思がかみ合ったときに、それを脅威と言います。そして北朝鮮のミサイルは出来上がっている、つまり能力は止められなかったわけです。能力を止められなかったら、何を止めるか?意思を止めなければいけない。

北朝鮮はなぜ日本を攻撃しようとする意志を持つのだろうか?日本と北朝鮮の間には戦争をしなければならないような、解決しないような領有権問題はありません。もし、北朝鮮が日本を攻撃しようとする動機があるとすれば、そこにあの怖い米軍がいて、自分を滅ぼしに来るかもしれない恐怖があるから攻撃しないといけないと思う動機が生まれます。そこを何とかしろ、だからアメリカがおまえのことを武力で滅ぼすことはないという安心供与をしてやることが、ひいては核を持つミサイルをもつという動機を無くしていく、意思を無くしていくことになる、ミサイルが飛んでこないことになる一番確実な手立ては、それしかない。そこで南北の首脳会談で今年中に朝鮮戦争以来の戦争関係を終わらせようという話が出てきました。一番本質にあるのはそれです。それがあるからアメリカが韓国防衛のために乗り出してきている。このアメリカが怖いから北朝鮮は核を持とうとしているのですから、根っこにある南北の戦争状態を終わらせるというのは、もちろんそう簡単なことではないかもしれないが、一番ものごとの根源にある問題です。

6、「安倍改憲論」について

最期にアベ改憲論について感じていることを言います。いまや9割を超える国民が自衛隊の存在を支持してくれているのだから、憲法上の根拠を書かなければつまらん憲法学者どもが違憲だというから、それではかわいそうだからと言っている。しかし、問題はどういう自衛隊だから9割を超える国民の支持があるのか?それは災害派遣で国民を助けてくれる。もう一つ私が実感していることは、92年のカンボジア以来海外任務をやっています。当時、海外に行って戦争になるという野党の反対の声がたくさんありました。しかし、自衛隊はこの間、一発の弾も撃ってない。ひとりの戦死者も出していない。戦争ではないということが分かっていただいた。だから9割を超える国民が自衛隊を支持してくれていると思います。

“安保法制をまじめにやったら、必ず武器を使わなければいけない。誰か死にます”。そういう自衛隊を国民が支持したいわけではないのです。そこを問わなければならない。

海外で武器を使うということは、憲法9条2項の戦力の不保持、交戦権の否認をそのままにするわけですから、海外に行った自衛隊がその時にどうするか?

国として戦闘できないから、どういう武器使用の法律になっているかというと自衛官個人が自分の判断で武器を使ってもいいよとなっています。そしたら、その結果について誰が責任を負うのか?個人の権限ですから個人が負うんです。国の命令で派遣されて、国の法律に従って武器を使って引き金を引いて相手が死んだら、おまえが殺人犯だという仕組みになっています。そういうことをやらせたいのだったら憲法9条2項を削除して、ちゃんとした軍隊を持つと言えということになる。それができないんだったら、海外に行って武器を使うような仕事をさせてはいけない。

そしてよく言われるのは、「憲法守って国が滅んでもいいのか」という言い方があります。国を守るとはどういうことなのか考えてみると、国の姿を守るということ、国の在り方を守る、それを外国に干渉されず自分で決めることが主権であり、外国から干渉されたときに、それを振り払って主権を保つのが独立なんです。

国の姿を守るということは、憲法に書いてあります。まず国民主権の国であること、そして基本的人権が尊重されること、三つ目平和主義の国であること、これを守ることが国を守るということです。そこに、ぜひ本気をおいていただく、それが本気で戦争を止めるということですし、私たちが息絶えた後にも、ずーっと続く課題として議論を深めて残していかなければいけないテーマであると思います。

以上

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