母校である女鳥羽中学校でクラス担任でバスケット部の顧問であった小林健孜先生が亡くなったと、バスケ部の酒井和男君から電話があった。あらためて信濃毎日新聞の北信欄を見るとトップに掲載されていた。急に具合が悪くなったのだろうかと、篠ノ井布施五明のご自宅に電話をして奥様に事情をお聞きする。奥様が不在の12月16日土曜日に「心筋梗塞で倒れたのではないか」とのこと。慌てて、同級生やバスケ部の同期先輩の皆さんに連絡をとる。
葬儀は21日に行われたのだが、都合により前日の20日の午前中に弔問に行く。同じく同級生でバスケ部の仲間だった柳沢宗義君と一緒になる。7,8年前から心臓の難病を抱えていたとのこと。奥様が実家の伊那に出かけていて、夜まで連絡はとれていたが、朝電話をしても出ないので、ご近所の方に見に行ってもらったら倒れていたという。奥様はそばにいてやれなかったことを悔やまれていた。ご子息はお二人いる。どうか支えてあげてほしい。心よりお悔やみを申しあげます。
小林健孜先生は通称を”コバケン”という。健孜の”孜”は、なかなか難しい字でスマホでは出てこない。私は中学で3年間担任としてお世話になったが、小学校5年、6年の時にミニバスケットで、教わっていたことがある。まさかクラス担任になるとも思っていなかった。教科は国語だったと思う。思うといううのは、コバケンの思い出は授業の中にはない。学級運営やバスケ部の思い出の方が多い。特にバスケ部は、私たちの代の時に県大会で優勝しているのだからなおさらだ。そのたびに申しあげているが私は補欠だ。
女鳥羽中学校に来る前は南佐久郡の川上村小学校だったそうだ。奥様から聞いた。本人はバレーボールはやったことがあったが、女鳥羽に来て男子バスケットボール部の顧問となった。私の4つ上の先輩から指導を始めたが、最初から熱血漢で今なら大問題になるくらい厳しい先生であった。当時強かった鎌田中学の原先生や、近所の高校である美須々の五味先生、蟻ケ崎の茅野先生、県ヶ丘の山崎先生、深志の飯沼先生に教わりながら、次第に強くなっていった。県大会で優勝はしたが、信越大会で優勝を逃し全国大会に行けなかったことは、今さらながらに残念だった。
中学を卒業して高校三年生の時に、進路に悩み一度布施五明の自宅を訪れたことがある。相談した中身は覚えていないが、お宅を出て篠ノ井駅に向かう私に奥様が「遅れないように急ぎなさい」というポーズをとって外で見送ってくれたことを覚えている。
先生は、その後長野市の桜が丘中学などを経て校長となり、校長会の会長となった。退職後、長野県体育協会の専務理事もつとめた。私がはじめて選挙に出た2007年参議院選挙の時には、布施五明の隣組を案内してくれた。私が県議会議員にはじめて当選したときは、篠ノ井の公民館長をしていた。社民党の長野市議をつとめてきた宮崎一さんとともに、私の当選祝いをしてくれた。
最後に顔を見たのは、何年か前の参議院選挙で長野市のJAビルで行われた市民と野党の共闘による集会の時だったと思う。今年、先生のご親戚が浅間温泉の玉の湯に宿泊するということで、訪ねたが先生はお風呂に入っていて、私は次の時間が迫っていてお会いすることができなかった。そのとき、訪ねた酒井和男君や大沢一仁君が、「そろそろバスケ部のOB会をやろう」という話になったらしいが、結局実現できなかったことが一番悔やまれる。
重ねてお悔やみを申し上げ、”コバケン”の思い出をしたためておくことにします。
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