個人差は科学的研究の対象にならないと主張したのは、アメリカの精神科医H.S.サリヴァンである。もっともな主張だと思う。
実際、魚の群れの一匹一匹、バッタの群れの一匹一匹の個人差(個体差)を論じるのは、あまり意味がないだろう。
人間も実は同じだとサリヴァンは言っているのだ。人間は個人差よりも共通部分のほうが圧倒的に多い。だから、すべての人間をクローンにように同一と見なして研究するほうが、より真実に迫る早道だろう。
しかし、実際の人間は、「あの人は好き、あの人は駄目」なぞと、個人差を見出そうとしてやまない。
それは種が同じだからである。個人差(個体差)は同一種の中では厳然と機能している。猿の序列や、メスを競い合う鹿のオス習性など、彼らの中だけでなら互いに個体差が分かるのだ。
でも、一歩上空から見ると、人間も猿も鹿も種というカタマリに過ぎない。研究という特殊な分野からだけでなく、もっと卑俗な世界においても、まずは個人差はないと決めてかかるのが正当だと私は思う。個人差は世渡りするときだけ考えればよい。
美人や不美人といった個人差なぞゴミみたいなものである。
実際、魚の群れの一匹一匹、バッタの群れの一匹一匹の個人差(個体差)を論じるのは、あまり意味がないだろう。
人間も実は同じだとサリヴァンは言っているのだ。人間は個人差よりも共通部分のほうが圧倒的に多い。だから、すべての人間をクローンにように同一と見なして研究するほうが、より真実に迫る早道だろう。
しかし、実際の人間は、「あの人は好き、あの人は駄目」なぞと、個人差を見出そうとしてやまない。
それは種が同じだからである。個人差(個体差)は同一種の中では厳然と機能している。猿の序列や、メスを競い合う鹿のオス習性など、彼らの中だけでなら互いに個体差が分かるのだ。
でも、一歩上空から見ると、人間も猿も鹿も種というカタマリに過ぎない。研究という特殊な分野からだけでなく、もっと卑俗な世界においても、まずは個人差はないと決めてかかるのが正当だと私は思う。個人差は世渡りするときだけ考えればよい。
美人や不美人といった個人差なぞゴミみたいなものである。