今はどうか知らないが、昔は医学部ではドイツ語が必修科目だった。
私が医学生のころ、あるドイツ語教師が言った。「君たちのやっている学問は実学である。それにひきかえ、私の学問は虚学である」と。
私はイヤな気がした。学生たちをヨイショしたのかもしれないが、語学が虚学なぞと卑下する教師に反感を覚えた。
語学は立派な実学である。げんに卑下した教師は、私たちと比べようもなく流麗にドイツ語を日本語に訳せるはずである。
この20年間で、医学におけるドイツ語の地位は大きく下落した。日本医学は北里柴三郎以前から、ドイツ医学を手本としていた。
しかし、今の医学界はすべて英語になってしまった。昔、権威のあったドイツ語学術雑誌の凋落がはなはだしい。ドイツ人でさえ英語で学術論文を書く時代になってしまった。
インターネットは99%英語の世界である。医学界でも、今は英語しか通用しない。英語の世界支配はここまで来てしまった。
私はドイツ語がそんなに下手ではない。でも、私が上記のドイツ語教師に嫌悪感を抱いていたことが、彼にも分かったのだろう。その教師は、私のドイツ語試験を成績のいかんにかかわらず全部落とした。
他にもドイツ語教師がいた。その教師は私を「優」で試験を通してくれた。個人的な好悪で私を「不可」にしたドイツ語教師を、私は今でも軽蔑している。
話を元に戻そう。語学が虚学なら医学も虚学である。医学には論理がない。ただ、経験を集積しただけである。経験の集積は、ただそれだけのことであって、学問とは言えない。
もっと言えば、法学、経済学、国文学なども学問と言えないし、さらに言えば物理学だって学問と言えるかどうか怪しい。
私にとって、本当の学問とは数学だけである。ある公理系のもとで、まったく無矛盾な世界が構築される。これは美しい。でも、何の役に立つのかと言えば、ほとんど役に立たない。
役に立たなくても、論理的に整合性のあるものが真の学問である。学問とはそういうものだと私は思う。
そのような基準で見れば、医学は学問ではなく、単なる「生活の知恵」の集大成に過ぎない。
私が医学生のころ、あるドイツ語教師が言った。「君たちのやっている学問は実学である。それにひきかえ、私の学問は虚学である」と。
私はイヤな気がした。学生たちをヨイショしたのかもしれないが、語学が虚学なぞと卑下する教師に反感を覚えた。
語学は立派な実学である。げんに卑下した教師は、私たちと比べようもなく流麗にドイツ語を日本語に訳せるはずである。
この20年間で、医学におけるドイツ語の地位は大きく下落した。日本医学は北里柴三郎以前から、ドイツ医学を手本としていた。
しかし、今の医学界はすべて英語になってしまった。昔、権威のあったドイツ語学術雑誌の凋落がはなはだしい。ドイツ人でさえ英語で学術論文を書く時代になってしまった。
インターネットは99%英語の世界である。医学界でも、今は英語しか通用しない。英語の世界支配はここまで来てしまった。
私はドイツ語がそんなに下手ではない。でも、私が上記のドイツ語教師に嫌悪感を抱いていたことが、彼にも分かったのだろう。その教師は、私のドイツ語試験を成績のいかんにかかわらず全部落とした。
他にもドイツ語教師がいた。その教師は私を「優」で試験を通してくれた。個人的な好悪で私を「不可」にしたドイツ語教師を、私は今でも軽蔑している。
話を元に戻そう。語学が虚学なら医学も虚学である。医学には論理がない。ただ、経験を集積しただけである。経験の集積は、ただそれだけのことであって、学問とは言えない。
もっと言えば、法学、経済学、国文学なども学問と言えないし、さらに言えば物理学だって学問と言えるかどうか怪しい。
私にとって、本当の学問とは数学だけである。ある公理系のもとで、まったく無矛盾な世界が構築される。これは美しい。でも、何の役に立つのかと言えば、ほとんど役に立たない。
役に立たなくても、論理的に整合性のあるものが真の学問である。学問とはそういうものだと私は思う。
そのような基準で見れば、医学は学問ではなく、単なる「生活の知恵」の集大成に過ぎない。