院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

歌舞伎考

2008-03-29 08:34:47 | Weblog
 「かぶき者」と言えば、江戸時代には現代のヤンキーを指していた。

 江戸時代には、踊りや演劇で衣食する者はちゃんとした国民と見なされていなかった。俗に士農工商というが、芸人はそのまたもっと下層のと見なされていた。だから、町なかに住めなかった。居住地は町の周辺に指定された。だから、「川原者」と蔑視された。

 明治になって、鹿鳴館時代に、西洋にはオペラなどの外国に通用する芸能がある。それに引き換え、日本ではどうか?それに匹敵するものがあるかと、明治政府は捜していた。

 鹿鳴館で西洋のマネばかりしていては侮られると考えた明治政府は、歌舞伎に目をつけた。歌舞伎は十分に西洋人を驚かせるだけの財産を持っていると明治政府は思った。こうして、歌舞伎は政府によって保護されるようになった。

 「梨園」が閉ざされた上流社会で、よそ者を排除するようになったのは、つい最近のことである。極言すれば、それまでは「梨園」は、ただの「川原者」の集まりだったのである。「梨園」が威張るようになったのは明治以降である。

 歌舞伎は江戸時代から庶民に圧倒的に支持されていた。歌舞伎の名場面、名ぜりふは江戸庶民の常識で、それらによって江戸庶民はコミュニケーションしていた。私の祖父の時代までそれは続いた。

 こうして歌舞伎は戦前までは、世界に冠たる芸能だったのである。

 敗戦により歌舞伎どころではなくなった。でも、戦後はまた息を吹き返し、歌舞伎座が建てられた。私は幼いころ祖母一家に連れられて歌舞伎座に行った。

 現在、幕の内弁当というものがあるけれども、これはよく知られているように、歌舞伎の幕間に出た弁当である。私たち一家は、幕の内弁当を作って、重箱に入れて歌舞伎座へ行った。舞台のソデの「特別席」で、弁当を食べながら一杯呑んで、歌舞伎を楽しんだ。

 つまり、昔の歌舞伎役者は格下の人種であり、庶民は飲み食いしながら歌舞伎見物をした。歌舞伎役者は芸術家でもなんでもなかったのである。

 歌舞伎役者の側も努力した。映画人がTVを嫌った時代にすでにTVに進出した。先代の松本幸四郎も、今の松本幸四郎もTVをおろそかにしなかった。使えるメディアは何でも使った。「川原者」としてしいたげられていた時代の血がそうさせたのだろう。

 今の松本幸四郎の娘の松たか子さんは、いつぞや述べたように私の好きな女優である。松さんが10代のころからウオッチしているが、彼女は最初から、「自分は美しい」という堂々とした態度でTVに出ていて、その度胸に一驚した覚えがある。

 その松さんが結婚した。時のたつのは早いものである。