院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

山頭火の俳句はほんとうに良いか?

2013-01-13 05:52:48 | 俳句
    うしろすがたのしぐれてゆくか  山頭火

 上の一行を見て、皆さんはどのように思われるだろうか?これは種田山頭火の代表句ということになっている。そして山頭火は無季自由律俳句のさきがけとして、尾崎放哉とともに奉られている。

 私が中学生のころすでに山頭火の名前をどこかで見た。そして最近もNHKの番組や雑誌サライの紙面で山頭火の話が語られていた。昔も現在も変わらずに放浪の俳人として、山頭火は注目され続けている。

 山頭火について語る人は、心から山頭火の一行をよいと思っているのだろうか?昔からあまりに沢山の「知識人」が山頭火山頭火と言うので、私は「まだ自分では分からないが、きっと良さがあるのだろう」と考えていた。

 だが、俳句を始めて25年、やはり山頭火の一行は何の価値もないと分かった。上の一行は山頭火のドラマチックな生涯を知っての上でないと面白くもなんともない。(知っていても面白くない。)

 そもそも、俳句に自由律なんてない。575という制限があるから俳句は俳句たりうるのであって、制限を取り払ったらただのキャッチコピーに過ぎない。

 俳句は俳人の生涯や境遇を知ったうえで味わうものではない。そのことについては先日、子規の句にかんする「鶏頭論争」の記事で述べた。

 山頭火や放哉を称揚する人の審美眼を私は信用しない。そういう人に対する軽蔑の言葉はいろいろ考えられる。「エセ権威主義」「右に倣え」「きどり屋」「ワケ知り顔」「俳句知らず」などである。ちと、ひど過ぎるだろうか?