院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

分類とは何か?

2013-01-19 05:18:46 | 科学
 昨日、性格の分類について書いたので、今日は分類という行為に対する私のスタンスについて述べよう。

 動物の分類はふつう脊椎動物と無脊椎動物に二分することから始まる。その下に「綱」だとか「目」だとかの細分類が行われる。

 だが、最初に脊椎動物と無脊椎動物を持ってくる必然性があるのだろうか?例えば、最初の分類を、目がある動物と目がない動物に分けても、同じように動物の詳細な分類が可能なのではないか?

 このような私の疑問に明快に答えてくれたのが、渡辺彗著『知るということ・認識学序説』(筑摩書房)である。渡辺の結論は「すべての分類は恣意的である」ということである。科学的な分類というものは存在しないと言い換えてもよい。

 渡辺は数理論理を用いて、白鳥と別の白鳥の類似度は、白鳥とアヒルの類似度に等しいことを証明した。だから、すべての分類は自分(分類者)に都合がよければそれでよいということになる。

 私の言葉でいえば、結核と赤痢を区別する「科学的な根拠はない」ということである。ただ、医学においては両者は効く抗生物質が違うので、両者を分けなくてはならない。要するに実用的な役に立つから、結核と赤痢は当面分けておいたほうがよいというわけだ。

 人類学の領域では、人種の分類は白人、黒人、黄色人種という分類がぎりぎりで、それ以上の分類は認められていないそうだ。

 疾病分類に話を戻すと、すべての疾病分類はプラグマティックな要請によるもので、それ以上の科学的根拠というものはない。アメリカ精神医学会が出したDSM(精神疾患の診断統計マニュアル)は、精神疾患が診断者によってあまりに診断が違ってくるのを防ごうとして編み出された。つまりDSMの目的は、診断者が違っても診断は同じになるようにしようということであって、結果として診断者たちにはきわめて評判が悪い分類法となった。(この分類を提唱した精神科医シュピツッアーは、DSMは誤りだったと最近、自己批判している。分類に誤りもくそもないのだが。)

 別の言い方をすれば、分類法は分類者の数だけあるということになる。渡辺の功績はそれを数理的に証明したことだ。渡辺の証明をなぜ私が理解できたかというと、高校時代にどんな参考書にも載っていない記号論理学(集合論、ブール代数、述語論理)を教えてもらったからだ。

 記号論理学を高校で教えたO先生は、「そんなもの入試に出ないではないか?」という生徒たちの雰囲気に抗して「必ず将来役に立つ」と一生懸命に教えた。

 おかげで、私は医者になってからJ・ピアジェの精神発達論が理解できた。ピアジェの論は、論理式で書けばすぐに理解できるのに、論理式を文章で説明するから何を言っているのか分からなくなる。

 「すべての分類は恣意的である」という主張が理解できたのも、O先生のおかげである。ただし、論理的には分類は恣意的なのだが、美人と不美人が画然と分類できるという動かしがたい事実があることも忘れてはならないだろう。