昔、東京で釣堀ブームというのがあった。東京に住んでいたころだから、私が高校生まで(1968年まで)の出来事だった。
空き地にテントを張ったり空き倉庫を借りたりして、板で囲って防水した20畳ほどの安手のプールがあちこちに造られた。そのプールに雷魚のような魚を放ち、客が30センチくらいの短い釣竿で放たれた魚を釣るのである。子どもだけでなく大人も夢中になった。
私はプールの釣堀で遊ぶことはなかった。以前からプールではない普通の釣堀はあった。総武線の御茶ノ水駅から見えるところにも大きな釣堀があって、大人の客たちがそこそこ入っていた。今でもあの釣堀はあるだろうか?
私は釣堀ブームのときも、それ以前も以後もほとんど釣堀で遊んだことはなかった。1、2回はあったかもしれない。しかし、まったく面白くなかった。なぜかというと、釣堀は海や川の釣りと違って、誰かが獲ってきた魚を釣らされるからである。何だか子どもが遊ばされているような感じがした。
そんなことをするくらいなら、最初から獲ってきた人に頼んで魚を買えばよいではないか、という気持ちがあった。獲ってきた人がいったん釣堀に放した魚をまた釣るなんて、甲斐のない苦労である。
話はパチンコに変わるが、学生時代にパチンコをよくやった時期があった。(私がいた名古屋はパチンコの発祥地である。)当時、自動玉打ち装置やスロットは、パチンコ台に付いていなかった。玉がよく出る台は打ち止めになるまでよく出た。出ない台は終始まったく出なかった。玉の軌道は釘の角度によってのみ制御されていたからである。
よく出る台は、翌日に同じ台を目当てに客が集まると困るので、その日の晩のうちに「釘師」によって釘が締められた。だから、パチンコという遊戯は客と釘師の「勝負」のようなところがあった。
パチンコがうまい人は、台の釘を見ただけで出る台か出ない台かの目利きができた。釘師は見破られないように釘を調整した。
現在のパチンコ台にはスロットマシンが付いている。このスロットはコンピュータ制御されていて、絵を揃いやすくしたり揃いにくくしたりすることができる。だから、パチンコ屋は店の台全体をコンピュータで管理して、店全体として収益が必ず30%になるように調整することができる。そのため、釘師という職人は絶滅してしまった。
パチンコ屋の儲けは30%と昔から決まっていたらしい。儲けが30%を超えると玉が出ないパチンコ屋として客が来なくなる。30%以下だと商売としてのうま味がない。
パチンコがコンピュータ制御されるようになってから、私はパチンコをしなくなってしまった。相手がコンピュータでは、手に汗を握りようがないではないか。
釣堀とパチンコは似ていないだろうか?私は似ていると思う。誰かに「遊ばされる」という意味において似ていると思うのだ。そりゃぁ娯楽産業はみな人を遊ばせて儲けている。音楽だって映画だって漫画だって、みな同じだ。
しかし、音楽、映画、漫画その他類似のエンターテインメントは、作り手が命がけではないか?客に受けようと思ってしのぎを削っているではないか?
それに比べると、釣堀やパチンコは安易な感じがする。なるほど、遊園地や動物園も遊ばせるためにできている。だが、それらは子どもが相手である。子どもが小さいうちは遊んでもらうのは仕方がない。しかし、釣堀やパチンコは大人が相手である。
私は釣堀やパチンコ(スロット式)は、人を馬鹿にしていると感じる。だから、それらで遊んでいると、あたかも一人で遊園地のコーヒーカップに乗せられているような気分になるのだが、私の感じ方が異常なのだろうか?
空き地にテントを張ったり空き倉庫を借りたりして、板で囲って防水した20畳ほどの安手のプールがあちこちに造られた。そのプールに雷魚のような魚を放ち、客が30センチくらいの短い釣竿で放たれた魚を釣るのである。子どもだけでなく大人も夢中になった。
私はプールの釣堀で遊ぶことはなかった。以前からプールではない普通の釣堀はあった。総武線の御茶ノ水駅から見えるところにも大きな釣堀があって、大人の客たちがそこそこ入っていた。今でもあの釣堀はあるだろうか?
私は釣堀ブームのときも、それ以前も以後もほとんど釣堀で遊んだことはなかった。1、2回はあったかもしれない。しかし、まったく面白くなかった。なぜかというと、釣堀は海や川の釣りと違って、誰かが獲ってきた魚を釣らされるからである。何だか子どもが遊ばされているような感じがした。
そんなことをするくらいなら、最初から獲ってきた人に頼んで魚を買えばよいではないか、という気持ちがあった。獲ってきた人がいったん釣堀に放した魚をまた釣るなんて、甲斐のない苦労である。
話はパチンコに変わるが、学生時代にパチンコをよくやった時期があった。(私がいた名古屋はパチンコの発祥地である。)当時、自動玉打ち装置やスロットは、パチンコ台に付いていなかった。玉がよく出る台は打ち止めになるまでよく出た。出ない台は終始まったく出なかった。玉の軌道は釘の角度によってのみ制御されていたからである。
よく出る台は、翌日に同じ台を目当てに客が集まると困るので、その日の晩のうちに「釘師」によって釘が締められた。だから、パチンコという遊戯は客と釘師の「勝負」のようなところがあった。
パチンコがうまい人は、台の釘を見ただけで出る台か出ない台かの目利きができた。釘師は見破られないように釘を調整した。
現在のパチンコ台にはスロットマシンが付いている。このスロットはコンピュータ制御されていて、絵を揃いやすくしたり揃いにくくしたりすることができる。だから、パチンコ屋は店の台全体をコンピュータで管理して、店全体として収益が必ず30%になるように調整することができる。そのため、釘師という職人は絶滅してしまった。
パチンコ屋の儲けは30%と昔から決まっていたらしい。儲けが30%を超えると玉が出ないパチンコ屋として客が来なくなる。30%以下だと商売としてのうま味がない。
パチンコがコンピュータ制御されるようになってから、私はパチンコをしなくなってしまった。相手がコンピュータでは、手に汗を握りようがないではないか。
釣堀とパチンコは似ていないだろうか?私は似ていると思う。誰かに「遊ばされる」という意味において似ていると思うのだ。そりゃぁ娯楽産業はみな人を遊ばせて儲けている。音楽だって映画だって漫画だって、みな同じだ。
しかし、音楽、映画、漫画その他類似のエンターテインメントは、作り手が命がけではないか?客に受けようと思ってしのぎを削っているではないか?
それに比べると、釣堀やパチンコは安易な感じがする。なるほど、遊園地や動物園も遊ばせるためにできている。だが、それらは子どもが相手である。子どもが小さいうちは遊んでもらうのは仕方がない。しかし、釣堀やパチンコは大人が相手である。
私は釣堀やパチンコ(スロット式)は、人を馬鹿にしていると感じる。だから、それらで遊んでいると、あたかも一人で遊園地のコーヒーカップに乗せられているような気分になるのだが、私の感じ方が異常なのだろうか?