働くのが無理な精神病の患者さんでも働きたがることが多い。無理なのに、現代労働の対人関係の中に自らを投げ込んで、無残にも敗北して、再入院となる患者さんをこれまでイヤというほど見てきた。
そもそも働くということは本能に近いものなのだろうか?それとも、文化に規定されているのだろうか?
評論家の小浜逸郎は、「一生食べるのに十分なほど蓄えがあっても、人間は働くだろう」と推察している。
私は「働かないだろう。しかし、何らかのアクションは続けるだろう」と思う。
古代ギリシャを見ると、市民階級は食べるための労働をしなかった。それは奴隷の役目で、自分たちは知的な(一文にもならない)活動に力を注いだ。
石油だけで食べていけるサウジアラビア人も、生産的な労働はしないようだ。
働くのがとても難しい患者さんが働きたがるのは、生産が人間の本能だからではなく、日本の働きカルチャーの中で人並みでありたい、ということだと思う。
働きカルチャーを失ったサウジアラビアの患者さんは、日本の患者さんほど働くことを渇望しないと思うのだが、これは調査をすればすぐに分かることである。
そもそも働くということは本能に近いものなのだろうか?それとも、文化に規定されているのだろうか?
評論家の小浜逸郎は、「一生食べるのに十分なほど蓄えがあっても、人間は働くだろう」と推察している。
私は「働かないだろう。しかし、何らかのアクションは続けるだろう」と思う。
古代ギリシャを見ると、市民階級は食べるための労働をしなかった。それは奴隷の役目で、自分たちは知的な(一文にもならない)活動に力を注いだ。
石油だけで食べていけるサウジアラビア人も、生産的な労働はしないようだ。
働くのがとても難しい患者さんが働きたがるのは、生産が人間の本能だからではなく、日本の働きカルチャーの中で人並みでありたい、ということだと思う。
働きカルチャーを失ったサウジアラビアの患者さんは、日本の患者さんほど働くことを渇望しないと思うのだが、これは調査をすればすぐに分かることである。