院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

男女雇用機会均等社会になるずっと前

2013-06-02 00:26:23 | 社会
 映画「三丁目の夕日」の時代、国民の80%は農民だった。「三丁目の夕日」の街は東京の下町で、当時の農村から見れば、驚くほど裕福な暮らしをしていた。

 都市は工業化を遂げ、大量の人手を必要としていた。家族労働をしていた「三丁目の夕日」の「鈴木オート」や「茶川商店」では家族以外の労働力を求めていた。東北の農家を初めとした田舎では、経済的な理由で高校進学ができない子弟が多かった。東京は彼らを「金の卵」として迎え、就職は中学校が世話をした。これが集団就職である。

 農家から見れば、集団就職は(あまり語られないが)「口減らし」の意味もあった。また女子生徒は自分の母親のような土地に縛り付けられる農婦の仕事を嫌った。

 当時の東京への流入人口は年に30万人とも40万人とも言われている。

 このころ実はホワイトカラーという層が東京にあった。ホワイトカラーとは高等教育を受け、背広で仕事をする人々である。彼らは街の商店の人々より、さらに裕福な暮らしをしていた。「鈴木オート」や「茶川商店」の人々はホワイトカラーではなく、ブルーカラーである。

 ホワイトカラーの妻は専業主婦だった。彼女たちは「奥様」と呼ばれ、夫の世話や家事がもっぱらの仕事で、余暇にはお茶やお華をたしなんだ。このような優雅な生活は、ブルーカラーの妻たちの憧れだった。

 農家の婦人は、赤ん坊を柱に繋ぐような児童虐待まがいのことをして、毎日野良に出た。夜は家でまた家庭内労働である。こうした母親の姿を見てきた農家の娘たちには、優雅に過ごしている東京の「奥様」すなわち専業主婦は、まったく別世界の人だった。

 少なくともあの時代、「奥様」はなろうとしてもなれない、特別な位置にあった。

 その後、東京を初め日本は著しい経済成長を遂げ、ホワイトカラーが急増した。その妻たちは憧れの「奥様」の座に就くことができた。東京は住宅難だと言われていたが、2DKのモダンな集合住宅が次々と作られ、ホワイトカラー層はそこに入居した。

 ホワイトカラーの妻には高学歴の女性が多かった。彼女らが、やがて「自己実現」するために「社会進出」が必要だと言い出して、昨日書いたように男女雇用機会均等社会へと突き進むのだが、見方によっては、彼女らはせっかく手に入れた憧れの専業主婦の座を、自ら捨てようとする挙に出たようにも見えるのである。