その料亭には立派な玄関があって、いまどき下足番の男性がいた。まず「控えの間」の通され、お茶とお菓子が出た。料亭の主人が来て、挨拶がてら部屋、掛け軸、活け花などの説明があった。いきなり食事の部屋に通されないことに少し感動した。建築は昭和初期のものだそうで、なかなか凝った造りだった。庭も美しかった(写真左手に少し見える。)

(食事のメインルーム。)

(カモイの釘隠し。ここは龍の間だから龍の彫刻がしてある。各部屋の釘隠しには部屋の名前の彫刻が施されている。)
食事の部屋には前室があって、そこで料理の確認をしてから供されるようになっていた。まず突き出しが出た。突き出しを食べれば、その後の料理の質がすべて想像できてしまうことは 2014-05-10 に書いた。今回の突き出しは、その後の料理に不安を感じさせるものだった。

(突出し。この料亭では「八寸」と呼んでいた。)
料理は上の左側から、フグの白子の豆腐。わざわざ豆腐状にする必要があるのだろうか?豆腐にした分だけ素材の味が落ちている。生臭ささがあった。その隣りの粽(ちまき)は鯛の寿司。5月だから粽にしたというが必要がない。寿司飯が餅状で、いじりすぎだ。味はまあまあ。奥の小鉢はインゲンと生シイタケの白和え。これは芸がなく、家庭で作れる。
左下が小魚と大根おろしに何かを混ぜたもの。まずくはないが高級感がない。その右の矢羽の形をした小皿の左から鮟肝のムース。スーパーで売っている鮟肝と同じだ。中央がサワガニのから揚げ。サワガニのから揚げは、むかし煮干しなどの干物と混ぜて酒の肴にした下卑たスナックである。材料費がほとんどゼロに近い。その右の天ぷらは、そら豆とさつま芋と木の芽で、これも材料費が10円で足りる。
矢羽の形の小皿からしてそうだが、この店は器がよくない。このあとの器も瀬戸市の瀬戸物祭りで大量に買ってきたような品物なのだ。建物の立派さと不釣り合いである。
この突き出しを食べて、あとの料理が不安になったが、不安は的中した。煮ものは肉厚の牡蠣のじぶ煮、味が濃すぎる。魚介が続いているので、ここは鶏肉程度にとどめるべきだろう。やはり、少し生臭いのだ。
焼き物は、甘鯛の塩焼き。なんの工夫もない。家庭で作れる。まずくはないが驚きがない。次がとどめだった。抹茶茶碗のような鉢に、魚、こんにゃく、香草が入れられ煮てある。ひどく塩辛い。すべての材料の味を調理が殺しているので、なにを食べさせられているのか分からない。一口でやめてしまった。
アワビのステーキと銘打った料理は、アワビの肝の臭みをとったソースとパプリカがかかっている。ソースでアワビをわざと不味くしたようなシロモノである。最後の酢の物は蟹とモズクと筍だったが、居酒屋のメニューみたい。デザートのマンゴープリンは、ファミレスのスイーツに負けている。
この店も、うまい時期があったのだろう。料理人が変わったのだ。料理が料理人に左右されることは、音楽が演奏家に左右されるのと同じで当たり前のことである。
2013-08-05 に紹介した「つきぢ田村」、「京都吉兆」の足元にも及ばない。「つきぢ田村」の料理長はもう高齢である。引退しないうちにまた行っておかなくてはならないと思った。
最後になったが、実は最初の控えの間でお菓子ととも出された煎茶が、まるでティーバッグで淹れたような香りのないお茶だった。私の不安は、このときすでに芽生えていたのだ。

(食事のメインルーム。)

(カモイの釘隠し。ここは龍の間だから龍の彫刻がしてある。各部屋の釘隠しには部屋の名前の彫刻が施されている。)
食事の部屋には前室があって、そこで料理の確認をしてから供されるようになっていた。まず突き出しが出た。突き出しを食べれば、その後の料理の質がすべて想像できてしまうことは 2014-05-10 に書いた。今回の突き出しは、その後の料理に不安を感じさせるものだった。

(突出し。この料亭では「八寸」と呼んでいた。)
料理は上の左側から、フグの白子の豆腐。わざわざ豆腐状にする必要があるのだろうか?豆腐にした分だけ素材の味が落ちている。生臭ささがあった。その隣りの粽(ちまき)は鯛の寿司。5月だから粽にしたというが必要がない。寿司飯が餅状で、いじりすぎだ。味はまあまあ。奥の小鉢はインゲンと生シイタケの白和え。これは芸がなく、家庭で作れる。
左下が小魚と大根おろしに何かを混ぜたもの。まずくはないが高級感がない。その右の矢羽の形をした小皿の左から鮟肝のムース。スーパーで売っている鮟肝と同じだ。中央がサワガニのから揚げ。サワガニのから揚げは、むかし煮干しなどの干物と混ぜて酒の肴にした下卑たスナックである。材料費がほとんどゼロに近い。その右の天ぷらは、そら豆とさつま芋と木の芽で、これも材料費が10円で足りる。
矢羽の形の小皿からしてそうだが、この店は器がよくない。このあとの器も瀬戸市の瀬戸物祭りで大量に買ってきたような品物なのだ。建物の立派さと不釣り合いである。
この突き出しを食べて、あとの料理が不安になったが、不安は的中した。煮ものは肉厚の牡蠣のじぶ煮、味が濃すぎる。魚介が続いているので、ここは鶏肉程度にとどめるべきだろう。やはり、少し生臭いのだ。
焼き物は、甘鯛の塩焼き。なんの工夫もない。家庭で作れる。まずくはないが驚きがない。次がとどめだった。抹茶茶碗のような鉢に、魚、こんにゃく、香草が入れられ煮てある。ひどく塩辛い。すべての材料の味を調理が殺しているので、なにを食べさせられているのか分からない。一口でやめてしまった。
アワビのステーキと銘打った料理は、アワビの肝の臭みをとったソースとパプリカがかかっている。ソースでアワビをわざと不味くしたようなシロモノである。最後の酢の物は蟹とモズクと筍だったが、居酒屋のメニューみたい。デザートのマンゴープリンは、ファミレスのスイーツに負けている。
この店も、うまい時期があったのだろう。料理人が変わったのだ。料理が料理人に左右されることは、音楽が演奏家に左右されるのと同じで当たり前のことである。
2013-08-05 に紹介した「つきぢ田村」、「京都吉兆」の足元にも及ばない。「つきぢ田村」の料理長はもう高齢である。引退しないうちにまた行っておかなくてはならないと思った。
最後になったが、実は最初の控えの間でお菓子ととも出された煎茶が、まるでティーバッグで淹れたような香りのないお茶だった。私の不安は、このときすでに芽生えていたのだ。