(芭蕉記念館。東京の公式観光サイトより引用。)
早いもので私が俳句を始めてから、もう四半世紀になります。最初の2年間は上達したのですが、あとは横ばい。同時に俳句を始めたある女性は、2年間で私を追い抜きました。俳句にも実は才能が必要です。私には俳句の才能が少ないと感じたのも、2年間を過ぎたころからでした。
最初の2年間は基礎的なことを覚えます。季重なりはいけないとか、切れが必要だとか・・。あと、俳句の先生からは「多作多捨」を奨励されましたが、未だにそれは実行できず、私は投句する俳句数の2倍弱くらいしか作れません。
骨董の目利きにしても、音楽鑑賞の審美眼にしても、「まず良いものだけを見なさい。そうすれば、良くないものはおのずと分かるようになる」と言われますが、それは本当です。音楽ならば、私たちは放送やCDから聴くことが多いので(つまり一流の演奏しか聴いていないので)、下手な演奏を聞けば一発で分かります。
ですが、俳句は少し違うようです。俳句は句会などに出て、素人の下手な俳句とたくさん接する必要があります。というのは、俳句は月並みや類想を嫌います。月並やみ類想は名人上手の俳句には出てこず、素人の俳句に頻出します。どのような表現が頻出するか、ある程度知るには素人句会の経験が必要です。それに気が付くのに2,3年は必要でしょうか。
例えば、次のような表現は当たり前過ぎて感動を与えません。
・木の実を表現するのに「たわわ」と言う。
・コスモスに「揺れる」という言い方をする。
・子燕の口が大きくて「顔が見えないほど」と言う。
内容も次のような内容は、ありがちです。
・年末に亡くなった人の年賀状が届いた。
・病院の検査結果になにもなく、安心した。
・米寿になったが、あっという間だった。
ありがちだと思わせないためには、同じ内容でも一ひねりしなくてはなりません。「俳句をひねる」という言い方はここから出てきたのだろうと、私は思います。
この「ありがちだ」ということが分かるようになるには、素人の俳句をたくさん見る期間、すなわち2,3年が必要でしょう。ですが、10年も俳句をやっていても、なぜか類想の句があるような俳句を作ってしまうことがあります。こうした難しさがあるから、俳句つくりはかえって面白いのでしょうね。