院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

鯨の味

2006-09-15 12:44:25 | Weblog
 商業捕鯨が禁止されてから20年がたつ。そのため、鯨の味をまったく知らない新成人が出てきてしまった。

 反捕鯨国の感情論は困ったものだ。地道に科学的に反論を続けるしかないだろう。

 ただ、われわれにも落ち度がある。それは鯨をひとくくりにして、種別に味わってこなかったことだ。

 猪と豚は同種であるにもかかわらず、味が全然違う。異種であるマッコウックジラとミンククジラは当然、味が違うだろう。

 われわれ鯨世代は、これらの味の見分け方を教わってこなかった。魚屋には「クジラ入荷しました」としか書かれていなかった。鯨のベーコンでも、何クジラのものか表示がなかった。なんでもかんでも、クジラとして一括してきた。

 反捕鯨国に対して強く出られないわけの一部は、そんなところにもあるかもしれない。

 昔はちょっと大きな市場なら鯨肉専門店があった。(博多の市場には今でもある)。そこの元親父なら、鯨の味を見分けることができるだろう。そういう人を捕鯨の会議に引っ張りだして、利き酒ならぬ利き鯨をやらせてみれば、反捕鯨国はあっと言うだろう。

 今こそ「通」の出番である。

食べたことがある肉

2006-09-14 13:07:26 | Weblog
 動物の肉でよく食べるのは、牛、豚、鶏である。商業捕鯨が禁止になるまでは、鯨の肉もよく食べた。ジンギスカンで羊の肉もときどき食べる。

 他にどんな肉を食べたことがあるだろうか。鍋料理屋で馬の肉を食べたことがある。馬刺も信州の民宿で食べた。フランス料理で鳩の肉を食べたことがある。

 猪の肉をどこかの旅館で食べた。スイスの田舎で鹿の肉を食べたことがある。

 私が食べたことがある動物の肉はざっと以上であって、魚に比べて圧倒的に種類が少ない。

 わが国のどこかでダチョウを養殖しているというから、そのうち食べる機会もあるだろう。ワニを食用に養殖している人もいるらしいが、まだ商業ベースには乗っていないという。

 韓国では犬の肉を食べるらしいけれども、私は韓国に行ったことがないし、行っても食べないだろう。

 イヌイットはトナカイやアザラシの肉を食べる。これらは一度、食べてみたい肉である。

 中華料理で熊の手のひらの料理があるそうだが、高そうだ。

 わが国では、昔は兎の肉も家庭で食べていたらしいが、最近は聞かない。

 わが国での肉食の歴史は浅い。明治になって牛鍋が出てきたころくらいからだろう。それ以前は動物の肉を食べることを「薬食い」と言って、肉は「薬」ということにしておいて、おおっぴらには食べていなかった。

 こんな浅い歴史では、肉の種類が限られているのも当然かもしれない。ちなみに「薬食い」は、冬の季語である。
 

ゲレンデスキーの欺瞞

2006-09-13 05:53:02 | Weblog
 もう40年近く前のことになるが、スキー列車というのがあった。

 ゲレンデスキーが流行していて、大勢の人がスキー板を持って、満員の電車でスキー場へ徹夜で出かけた。

 私は、スキーの大回転や、山岳スキーはスポーツとして認める。でも、ゲレンデスキーは、気に入らなかった。スポーツとは認められない。

 リフトで登って、ゆるやかな斜面を降りてくることなぞ、子供でもできる。児童公園の滑り台と同じだと思った。

 骨折者もたくさん出た。滑り台の親玉ごときで骨折とは、考えられないような時代だった。

 ゲレンデスキーの愛好者は、仲間でスキー場へ出かけて、夜、祝杯を挙げたり、カードゲームをするのも楽しみだったようだ。でも、宿がぎゅう詰めで、食事も高いだけで粗末だった。カレーライスが一杯1500円。コーヒー一杯600円。

 スキー場の経営者は、大金を稼いだようだ。あこぎな商売をしたものである。それに乗ったスキーヤーもスキーヤーである。

 最近、ようやくスキー熱が治まって来た。閉鎖されるスキー場も出てきた。いい気味である。

 今後は、山岳スキーの愛好者など、本物のスキーヤーだけが雪山に行けばよい。ゲレンデはどんどん潰れてほしい。雪の少ない年、金目当てに人工雪をゲレンデに撒くなんていう愚はやめてほしい。

 でも、ゲレンデスキーはすたれても、また別の流行ができてくるに違いない。そして、あこぎな業者に金を巻きあげられるだろう。

 往時のゲレンデスキーヤーも老いてきた。考えようによっては、彼らはお人好しである。彼らが隠退した後、またぞろ若いお人好しが出てくることは目に見えている。

 若いお人好しは、今度はどんな似非スポーツにだまされるのだろうか。

街のうどん屋

2006-09-12 10:25:18 | Weblog
 昔は街の一介のうどん屋が、びっくりするほどおいしいうどんや丼物を客に出していた。家庭ではとても真似のできない味だった。

 そうしたうどん屋が、最近は絶滅してしまった。家庭でも作れるような品物しか出てこない。

 昔は貧富の差が激しかったから、世が世なら一流人になりうる人が、家庭の事情などで学校へ行けず、うどん屋に奉公して辛抱していたのだろう。そういう人が一流の料理を出していたのかもしれない。

 現在は、本当においしいものを食べようとすると、和でも洋でも中でも高い店に行かねばならない。

 私は、昔は良かったと言いたいのではない。昔は街のうどん屋に、味や技術の代価として正当な金額を与えていなかったということだ。

 味と技術の代価については、現在のほうが適正である。
 

みそ煮込みうどん

2006-09-11 12:41:09 | Weblog
 名古屋に初めて来て、みそ煮込みうどんを食べたとき、麺が硬くて「これは茹で足りないのではないか」と思った。

 みそ煮込みうどんを、おいしいと感じるまで1、2年かかったと思う。慣れるととてもおいしいうどんである。

 中には最初からおいしいと言う人がいる。最近、名古屋食が全国区となってきたけれども、本当においしいみそ煮込みうどんは、まだ名古屋でしか食べられないだろう。

 名古屋に来られたおりには、みそ煮込みうどんをお薦めしたい。

スポーツニュースはニュースだろうか?

2006-09-10 09:46:51 | Weblog
 TVではニュースのあとに必ずスポーツニュースをやる。新聞もスポーツ報道に4面も割いている。

 スポーツの勝敗はニュースだろうか。スポーツを観戦して楽しむのならまだ解るが、勝敗やハイライトを知って面白いのだろうか。スポーツについてはスポーツ専門新聞に任せておいたらどうか。

 ついでに言うなら、交通事故や親殺しはニュースだろうか。これらは昔からあったことであり、いちいちこまごまと知らせるようなことでもあるまい。

 ニュースは誰が総理大臣になったか程度のことを知らせればよい。でも、それだとTVや新聞はニュースで言うことがなくなる。そうなのだ。国民に必ず知らせなければならないことは、さほど多くはないのである。

 私は株を持っていないから、新聞の株価の欄も必要ない。3面記事も必要ない。だから、私にとって新聞は、広告とTV欄くらいしか用がない。

 事実、私は新聞を取っていない。

サマータイム反対

2006-09-09 14:02:21 | Weblog
 人間の体内時計は分単位で正確である。だから、1時間時差がある土地へ行っただけで調子が狂う。

 時計の針を夏の間だけ1時間早めるサマータイムという制度を、戦後やったらしい。欧米では当たり前の制度だけれども、わが国では根付かず、数年で沙汰やみとなった。

 実は私はサマータイムと似たものを経験している。小学校低学年のことだが、時計の針を早めるのではなく、学校の始まりの時間が夏の間だけ40分早くされたことがあるのだ。これはつらかった。

 子供は眠たい盛りである。夜、寝苦しい上に早起きさせられて、非常に疲れた。早く夏が終わればよいと思った。

 わが国でも、国レベルでサマータイムを行おうという動きがある。私は絶対反対である。推進論者は生産性が上がり、余暇が増えると言うが、幻想である。一億総時差ボケになって、生産性は下がるし、健康にもよくない。一日は24時間なのに、余暇が「増える」という発想が理解できない。
 
 推進論者は欧米でやっていると言うが、それは空気が乾燥しているからであって、日本の夏のように湿気が多い場所にはなじまない。

 現にアメリカでは、南のほうの州はサマータイムをやっていない。

ミニチュアの魅力の理由

2006-09-08 12:51:37 | Weblog
 ミニチュアというものは、鉄道模型にしても、建物の模型にしても、精巧なほど魅力的である。

 小さな子供でも、精巧なものには惹かれるが、粗雑なミニチュアには惹かれない。

 なぜミニチュアは魅力的なのだろうか?鉄道模型のマニアは世にたくさんいる。ミニチュアカーのマニアもいる。船の模型作りに熱中している人もいる。

 話は飛ぶが、動物の子供はかわいい。子犬、子猫はもとより、カルガモの子、果てはワニの子供でもかわいい。

 生き物の子供をかわいいと感じるのは、われわれが人間の赤ちゃんをかわいいと感じる本能と関係があるのかもしれない。

 だとすると、精巧なミニチュアに魅力を感じるのも、本能なのではないか。

女医の苦悩

2006-09-07 14:27:11 | Weblog
 医学部6年、出て2年研修、専門科に分かれるのはその後だと前に書いた。

 これは女医にとって極めて過酷な条件である。生物学的に妊娠に適した年齢を、勉強で費やしてしまうからである。

 結婚しても、子供ができたら、まず医者は務まらない。仕方なく子育ての時期だけ医者を引退する女医は多い。

 早急に対策を講じなければならない。

1ヒメ2トラ3ダンプ

2006-09-06 10:12:09 | Weblog
 1ヒメ2トラ3ダンプという言葉をご存じの方はけっこう年配である。この標語(?)は車の運転で怖い順を表したものである。

 ヒメとは女性のことで、まず女性の運転が怖い。次は酔っ払い運転が怖い。3番目にダンプカーが怖いというほどの意味である。

 この標語が言われたわが国のモータリゼーション黎明期には、確かに女性の運転は怖かった。運転中にどうしたらよいか分からなくなると、「きゃー」とか言って、ハンドルを放してしまう女性ドライバーがいたほどで、ほんとうに女性の運転は下手だった。

 だが、動作能力において女性が先天的に劣っているわけではない。当時の女性の運転が下手だったのは、実は世間が「女性は運転に向かない」と決めつけていたからである。

 女性はそうした世間の要請に従って「わざと」運転技術を磨かなかっただけである。世間はスイスイと運転する女性を嫌った。女性は嫌われたくないために、運転が下手なふりをしていたのである。

 いまやプロの女性ドライバーも珍しくない。「女性は運転が上手であってはならない」という世間の圧力がなくなったからである。

 世間(または男性社会)の圧力というものには、強い力がある。現在でも、何らかの分野で女性(または男性)が無言の圧力を受けていることだろう。

女優・広末涼子さん

2006-09-05 15:05:33 | Weblog
女優の広末涼子さんは、かわいらしい人だと思う。でも、絶世の美女だとは思わない。

 ところが娘に言わせると、広末涼子さんは「顔だけでも猥褻なほど」の美女だという。

 昨日の「美人の基準」の項でも述べたけれども、これは世代による基準の違いなのだろうか。

 それにしても「顔だけで猥褻」とは、畏れ入った表現である。

美人の基準

2006-09-04 13:41:20 | Weblog
 作家の林真理子さんは「こんな美人見たことない」とケニアの人に言われたそうである。

 美人の基準は、国によって、時代によって、また個人の好みによっても変わってくる。私たちは浮世絵の美人画を見ても、さほどきれいだとは思わない。それが時代によるものか、浮世絵独特のデフォルメによるものかは分からない。

 上村松園や伊藤深水の美人画はきれいだと思う。また少女漫画のヒロインも相当デフォルメされているが、きれいだと思う。なぜだか不思議である。

 その国、その時代によって、美人の基準はどのように作られるのだろうか。

 仮説であるが、権力者の妻が美人の基準になるのではないか。

 クレオパトラや楊貴妃は絶世の美女だったというが、それは順序が逆で、彼女らが権力者の妻だったから美人の基準になったのではないかと考えたりもする。

ロシア許すまじ

2006-09-03 15:29:21 | Weblog
 終戦後、ソ連は日ソ不可侵条約を破って、旧満州と北方領土に侵攻した。

 それが中国残留孤児の始まりである。

 旧満州では、6万人の兵が捕らえられ、シベリア送りとなった。そのうちの一人が私の亡父である。

 父はモンゴルに連行された。収容所の待遇はひどく、食糧もろくろく与えられなかった。父は自分の金歯を抜いて、モンゴル人にパンに代えてもらった。

 ほとんど理由にもならないことで、抑留者は処刑された。父は、ソ連の見張り兵の足音を聞くと、次は自分が処刑されるのではないかと身の毛がよだったと言う。

 6万人抑留されて、帰ってきたのは2万人。あとは餓死か処刑である。ソ連もひどいことをしたものである。父は昭和22年に、なんとか帰国でき、結婚してその後私が生まれた。

 旧満州にソ連が侵攻したころ、ソ連は北方領土にも侵攻した。そして、いまだに不法占拠を行っている。

 父親からリアルに当時のソ連の横暴を聞いている私たちは、ソ連(現ロシア)を許せない。孫末代まで語り継ぐ予定である。

 先日、蟹漁の漁船がロシア船に発砲されて、死者がでた。とんでもない話である。丸腰の漁船に機関銃を撃つとは、ほとんど宣戦布告である。

 北方領土はソ連が不法に占拠した地域である。そこで密漁もへったくれもない。海上保安庁ないし海上自衛隊は、北方の漁船を守る必要がある。撃ったら撃ち帰すべきである。今回の漁船員の死でもって、日本はロシアと戦争状態に入ったと言ったら言い過ぎだろうか。

 父が死の床で、うわごとで言っていたのは、シベリア抑留の悪夢ばかりであった。

方言考

2006-09-02 14:04:06 | Weblog
 昔、方言は東京で差別されていた。

 東京の予備校に私が通っていたころ、九州から来た学生だと思うが、「それはこうではなかとですか」と発言した。そうしたら、教室内は爆笑となった。

 なぜ爆笑が起きたのか、九州の学生は分からなかったに違いない。(東京の予備校だから当然、東京人が多い)。まことに気の毒な爆笑だった。

 その後、「方言を差別してはいけない」と叫ばれるようになり、最近では「方言は地方色豊かで美しい」と言われるようになった。このような方言を「空間的(地理的)方言」と呼んでおきたい。

 ところで、若者の言葉が乱れていると言われて久しい。たとえば「ヤバイ」は「すばらしい」という意味なのだそうだ。言葉をこのように使われると、意味が分からなくなる。「オレ的には」や「チョー面白い」は、まだ分かる。

 いずれにせよ、年配者には若者の言葉に眉をひそめる人が多い。だが、ちょっと待ってほしい。これらは「方言」なのではないか?そう、「空間的方言」ではなく、「時間的方言」とでも言おうか。

 「空間的方言」の差別がなくなって、今度は「時間的方言」の差別が始まったとは考えられないだろうか。

 「空間的方言」ならよくて、「時間的方言」はよくないと言うのなら、その理由を教えてほしい。

個人差とは何か?

2006-09-01 13:35:09 | Weblog
 個人差は科学的研究の対象にならないと主張したのは、アメリカの精神科医H.S.サリヴァンである。もっともな主張だと思う。

 実際、魚の群れの一匹一匹、バッタの群れの一匹一匹の個人差(個体差)を論じるのは、あまり意味がないだろう。

 人間も実は同じだとサリヴァンは言っているのだ。人間は個人差よりも共通部分のほうが圧倒的に多い。だから、すべての人間をクローンにように同一と見なして研究するほうが、より真実に迫る早道だろう。

 しかし、実際の人間は、「あの人は好き、あの人は駄目」なぞと、個人差を見出そうとしてやまない。

 それは種が同じだからである。個人差(個体差)は同一種の中では厳然と機能している。猿の序列や、メスを競い合う鹿のオス習性など、彼らの中だけでなら互いに個体差が分かるのだ。

 でも、一歩上空から見ると、人間も猿も鹿も種というカタマリに過ぎない。研究という特殊な分野からだけでなく、もっと卑俗な世界においても、まずは個人差はないと決めてかかるのが正当だと私は思う。個人差は世渡りするときだけ考えればよい。

 美人や不美人といった個人差なぞゴミみたいなものである。