医学部ではむろん解剖実習があった。解剖実習は系統解剖と呼ばれ、病理解剖や司法解剖と違って、きわめて詳細である。解剖実習では、それこそ細い血管の一本から細い筋一本に至るまで詳細に解剖するので、朝から晩まで解剖していたとしても2か月以上はかかるだろう。
脳の解剖は別に行う。脳は豆腐のようなので、指導者が付きっ切りになって行わないと失敗する。
医学生は解剖実習で人体の不思議さと尊厳を叩き込まれる。解剖は医学の基礎の基礎で、どんな科に進んでも、一生役に立つ。
生化学の授業では、
TCAサイクルを一回は全部覚えろと命じられた。TCAサイクルは高等動物のエネルギー源になるATP(アデノシン三リン酸)という物質を生み出す化学反応系である。
戦前にこの反応系を見つけたクレブスという人は、戦後にノーベル賞をもらった。よくぞこんなに複雑な反応系を発見したものだと、学生だった私たちは驚嘆したものだ。
その反応系を暗記せよという生化学教授の命令だった。ただし、暗記は一回でよい、一回再現できたら、あとは忘れてよいということだった。だから必死に覚えた。
TCAサイクルを覚えているとき、そういえば同じようなことがあったなぁ、と思い出した。それは、高校で化学の周期律表を記憶させられたことだ。あのときも、一回は全部記憶せよと命じられて、テストがあって、一か所でも間違えるとやりなおしだった。やりなおしは完全に暗記するまで行われた。
その結果、高校の生徒全員が周期律表を覚えた。周期律表の上に化学があり、その延長線上にTCAサイクルがあるのだ。
若いうちの教育は、ただ暗記するだけということがあってもよいと、今にして思う。それはピアノを習う小児が芸術性もくそもなく、ただひたすらバイエルを弾くのと同じである。基礎のないところに建築は築けない。
よくできる看護師、カウンセラー、臨床心理士は、普通の臨床では精神科医と変わらない。ただ一点、精神科医が彼らと違うところは、脳の解剖やTCAサイクルを知っていることだ。だから、薬の脳における作用も原理から分かっているということだ。
精神科医がそんなことを主張しなくてならないほどに、今のコメディカルは優れている。