院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

『統合失調症治療の再検討』出版一周年

2013-06-16 08:08:14 | 読書
 拙著『統合失調症治療の再検討』が出版されてから一年がたちました。初版は2000部刷られましたが、まだ2刷の要請がありません。このブログを一年間休んで頑張ったのですが・・。

 某大学の心理学科の教授は以下のように言ってくれました。

 あの本はこのブログと同じで、読者を選ぶ。分かる人には一撃で分かるが、分からない人には分からない。一撃で分かる人は、毎年一定の%で出てくるし、あの本には本当のことが書いてあるから内容が古くならない。少しずつ長く売れるタイプの本である、と。

 私も共訳者の一人である弘文堂の『無意識の発見 上・下』は1980年に出版されました。少しづつですが現在でも増刷を重ねています。あれ以来5回も引っ越したのに、出版社が追跡してくれて未だに印税を送ってきます。そのような本になってほしいものです。

おいしくない串焼バーベキュー

2013-06-15 06:23:20 | 食べ物
 庭や浜辺に炉をしつらえて、バーベキューを楽しむ季節になってきた。ビール片手にわいわいやるのは嫌いじゃない。でも、バーベキューの串焼をうまいと思う人はいるのだろうか?

 野菜が焼けていても肉がナマだったりする。肉が中まで焼けると、野菜が焦げる。かたまりの肉を、あんなに強い火で焦がさずに中まで焼くことができるのだろうか?

 これまで、肉も野菜もほどよく焼けたバーベキューを食べたことがない。両方ともすっかり焦げてしまったこともある。

 バーベキューを一つの料理として見ると、作るのが極めて難しい。そもそも、焼串に刺された具を、すべて均等に焼くことは可能なのだろうか?

 あんなにおいしくない串焼バーベキューが、すたれないのは何故だろうか?ナマだったり焦げたりして、結果が予想できないところがかえって面白いと言うのは負け惜しみである。

 串焼バーベキューは、料理として無理があると私は思う。

作務衣の職人

2013-06-14 06:45:11 | 技術
 私が精神障害者リハビリ施設に勤めていたころ、利用者を対象に陶芸教室を設置することになった。

 私は、指導者として2人の陶芸家に声をかけた。そして採用のための「実地試験」を行った。試験の眼目は、その指導者が利用者を差別の目で見るかどうかだった。

 結果は、2人とも差別的ではなかった。指導態度にも問題はなかった。

 違いはと言えば、一方は作務衣とバンダナで作業したが、他方は普段着で陶器を作ったことだ。技量の違いは、素人の私には分からなかった。

 私は普段着の方を採用した。格好を付ける人を私が好まなかったからだ。

 普段着の指導者は、瀬戸市で普通の食器を作るのが本業で、陶芸は副業だった。でもその後、毎年、個展を開きファンを開拓していった。

 作務衣とバンダナのほうは、その後、活躍したとは聞かない。

 あれから25年、私も人生経験を積むうちに、作務衣で出てくる職人にはロクな職人がいないとの確信を持つに至った。

 そば職人(白衣の例作務衣の例)でも天ぷら職人でもよいから、今度、注意して見てほしい。作務衣の職人は見てくれを重視する人で、味の方は落ちることが分かるはずだから。

昔の朝鮮人観

2013-06-13 06:50:39 | 社会
 私がまだ駆け出しの精神科医だったころ、反応性に抑うつ状態になった若い女性が入院してきた。院長はその患者さんを私に任せた。

 私は薬物療法を行うのを躊躇した。なぜなら、その女性は妊娠していたからだ。そして未婚だった。

 その女性は、父親が自分の恋愛と妊娠にいかに無理解であるかを私に訴えた。このたびの恋愛の大切さを延々と力説した。有名大学を卒業したばかりの知的な女性だった。

 父親は結婚にも妊娠にも猛烈に反対していた。父親は地元の名士で、態度は慇懃だが凄みがあった。父親は「だって朝鮮人ですよ。なにも朝鮮人なんかと付き合うことはないでしょう?先生もそう思いませんか?」と言った。これほどあからさまに言う人も珍しかった。

 その後、すったもんだがあったが、詳細は省こう。患者さんは混迷状態(意識がないのではないが、ないかのように何もできなくなる状態)に陥ったりして、私も父親もさんざん振り回された。これまで患者さんを支配的に扱ってきた父親も、さすがに弱気になってきた。

 ある日、患者さんは混迷状態から突然に覚めて、晴れ晴れとした表情になった。そして、堕胎すると私に告げた。あとは、とんとん拍子に改善し、退院後、私の前に現れることはなかった。

 今回の病気は、これまで絶対的な権威として患者さんに圧政を行ってきた父親に対する、患者さんの一大レジスタンスだったのではないか?だから、父親がもっとも忌避する外国人を利用して、わざと身ごもったのではないか?レジスタンスが成功したから患者さんは、今度は平気な顔で私に堕胎を申し出たのではないか?あんなに産むと主張していたのに。

 だとすると、実は患者さん自身が、すでにある程度朝鮮人を差別していたのだと思い至った。考えれば考えるほど複雑な気持ちになる症例だった。

ヘイトスピーチと消費税還元セール

2013-06-12 07:38:34 | 社会
 新大久保では嫌朝鮮の人々がヘイトスピーチを行って、「朝鮮人死ね」とか「殺せ」とか叫んでいる。政府は「言論の自由もあるし、法律を作ってまで取り締まるのはいかがか」との見解である。

 このたび「消費税還元セール」といった表現を禁止する法律が作られた。大手スーパーが商品の零細納入業者に値引き圧力をかけるのを防ぐためだと屁理屈をつけている。大手なら零細業者いじめは昔からやっている。

 ヘイトスピーチを野放しにするなら、消費税還元セールも認めよ。

 消費税還元セールという言葉を、憲法に違反してまで取り締まるなら、ヘイトスピーチも禁止せよ。とにかく、どちらか一方にしてくれ。

(ヘイトスピーチを信念に基づいてやっているのなら、マスクで顔を隠すな。隠すということは、ネットでの匿名の誹謗中傷と同じレベルであるということだ。)

読書の楽しみ減る

2013-06-11 04:31:44 | 読書
 高校のころ国語の教師から、批評と評論とは違うと教わった。批評が対象の善し悪しを論じるのに対して、評論は対象に絡ませて自説を展開することだという。なるほどと思ったが、実際に行われている活動は、両者の中間くらいのものが多いようだ。

 若年のころは、テレビに出る評論家の言説を聞いて、よく勉強しているな、さすがにプロだな思うことが多かった。一方で、「評論家的」という形容詞は、当事者でない無責任な態度を表していた。

 現在、私は評論家の活動を必ずしも「評論家的」だとは考えない。彼らは万巻の書を読み、実地に体験してものを言っているから、彼らの言説を一応は傾聴しなければならない。

 ただ、しばしば「そんなことは私が若いころから考えていたことだ」、「昔はよく言われていたことだ」と思わせるような発言に出会うことがある。そのような場面に遭遇すると、自分も歳を取ったものだと思う。最近は出演者の年齢が表示されることが多いが、年配の評論家でも私より一回りも年下なのだ。若い評論家なら20代である。

 これは自然科学以外の学問に言えることで、人間が考えうる思想は諸子百家に尽きている。そうそう新しい思想が出てくるはずもない。ただ、テクノロジーだけは長足の進歩を遂げている。少年のころに見た図鑑には「未来にはメガネのツルに入るような超小型のラジオができるだろう」とあったが、実現した。

 最近では読書をしていても、テクノロジー以外の分野では「これは新しい」と感心するような言説はない。たとえば自然言語や社会構造などに関する文科系の書物を読んでいると、あるレベルまでは考察が進むのだが、それ以上には進まない。そこまでなら、すでに40年前に誰かが言っていたよ、そこから先に考察を進めるのが難しいんだよ、と思ってしまう。最近、読書の楽しみが減ってきたかも知れない。

個人に対する医療と集団に対する医療

2013-06-10 05:31:46 | 医療
 向精神薬は、だいたい50%の人に効けば相当によい薬である。しかし、患者さん本人にとってみれば、自分が効く50%に入るのか、効かない50%に入るのかは大問題だ。

 薬を飲む前に、その薬が効くか効かないかを知るすべはない。だから、実際に服用してみるわけだが、効かない50%の人にとって、その薬はなんの意味もない。だからと言って、その薬は無価値とは言えない。

 これが90%の人に効く薬であっても実は同じことが言える。効かない10%の人にとっては、やはり無意味なことに変わりはない。

 マスとしての人口に対してどう効くかということと、個人に対してどう効くかということとは、関係がない。

 マスと個人はしばしば背反する。ワクチンの例がもっとも分かりやすいだろう。

 1本千円の高いワクチンと、1本百円の安いワクチンがあったとする。両方とも同じ病気のワクチンである。

 ある国の富みの量が一定だとする。その国では、1本百円の安いワクチンなら国民全員に接種することができる。しかし、千円の高いワクチンだと人口の1割にしか接種できない。その病気は2%の致死率がある。

 千円の高いワクチンには副作用がまったくない。百円の安いワクチンには副作用があって、接種した人の1%が副作用で死ぬとする。その場合、どちらのワクチンを選択するべきか?

 その国の指導者は、当然百円の安いワクチンを採用する。安いワクチンでも射っておいた方が、国民全体での死亡率が減るからである。これが公衆衛生の基本的な考え方である。

 ここで注意しておかなければならないのは、ワクチン射たないで病気で死ぬ人と、ワクチンを射って病気にはかからなかったのに副作用で死ぬ人は、たぶん別人である。

 でも、医療は国民をマスとして考え、同じ予算なら、トータルとして死ぬ%が少ないほうを採らなくてはならない宿命がある。

 このワクチンの例は、かえって読者を混乱させてしまうだろうか?

サイン(署名)の値段

2013-06-09 03:48:04 | 経済
 「開運なんでも鑑定団」という番組が面白く、20年前に始まったころから見ている。小汚い茶碗が何百万円もしたり、豪華な壺がニセモノだったりして、これまで知らなかった世界を番組は見せてくれた。

 最初のうちは、たんに値踏みをするだけだったが、最近では品物の歴史が語られるようになり、値踏みよりもそちらのほうが面白い。

 この番組にしばしば出てくるのが、有名スポーツ選手やタレントのサインである。これまで出てきたサインのうちで最も高かったのが、ビートルズが来日したときに乗った車の天井に書いたサインだ。確か、何百万円もしたと思う。

 陶器や絵画に高値が付いても理解できなくはないが、サインごときが何故こんなに高価なのか不思議である。サインには美的価値も歴史的価値もないはずだ。

 高値でも買う人がいるから高いのだという説明は的を射ていない。私が疑問なのは、なぜそのような人がいるのだろうか、ということだからだ。

 番組によれば、アメリカにはサインビジネスというのがあるそうだ。バスケットボールの有名選手が、業者が用意したたくさんのボールに次々とサインをしていくのだという。そのようにして「生産」されたものでも欲しがる人がいるというのが不思議である。

 ときに、例えばピカソのような有名画家の殴り書きのような鉛筆画が出品される。そのような品物にけっこう高い値段がつくのが不思議だった。

 だが、サインに高値が付くことを思えば、殴り書きにピカソのサインがあれば、その値段は殴り書きの値段ではなくサインの値段なのだと考えれば、いくぶん納得できる。

 ところが鑑定士はそうは言わない。「殴り書きのように見えても、さすがにピカソで、味わいが違う」なぞと審美的な理由が付けられるから、私にはわけが分からなくなる。

 美術的な価値よりも、希少価値や知名度で値段が決まるのだとはっきり言ってくれれば、私の胸のつかえも降りるのだが・・。(でも、お金を払ってサインを買う人の気持ちは、依然として分からない。)

ハイボールとウイスキーの水割り

2013-06-08 02:43:16 | 食べ物
 最近、ふたたびハイボールが流行っているのは、宣伝上手のサントリーの戦略である。かつて山口瞳や開高健を擁したサントリーの広告のうまさには昔から定評がある。

 ハイボールはウイスキーを炭酸で割ったチュウハイのようなもので、私が幼少時代からあった。角瓶ではなく、トリスで作ることが多かった。トリスはお世辞にも美味しいとは言えなかった。当時、角瓶は高級品だった。亡父が大事そうに角瓶を買ってきた覚えがある。ハイブローな人は、角瓶よりもう1ランク上のダルマを飲んだ。

 サントリーは自らのウイスキーをスコッチと呼んでいた。本場のスコッチはものすごく高価で、ジョニ黒が8000円もした。今の価格にすると8万円くらいの感覚だ。それがどんどん安くなって、私が酒を飲むようになったころには20分の1まで下がっていた。

 その頃、スコットランドのスコッチ組合は、サントリーがスコッチと名乗って売っている酒はスコッチではないと訴えた。味もそうだが、そもそも材料や製法が違うと。以来サントリーは自らのウイスキーをスコッチとは名乗らなくなった。

 その後、本物のスコッチを飲む機会があった。サントリーのウイスキーとは似てもつかぬほど美味しいものだった。その時初めて、ハイボールはサントリーウイスキーのまずさを誤魔化すための方策だったのだと知った。

 イギリスのスコットランドに行ったとき、バーで水割りを注文した。水割りのことを「ウイスキーアンドウオーター」と言うのだと教わっていたので、そのように注文した。そうしたら出てきたものは、ウイスキーにごく微量な水と氷が入ったものだった。すなわち、ほとんどオンザロックというよりストレートだった。本場ではウイスキーを薄める習慣はないのだと分かった。

 日本のバーでは普通にウイスキーの水割り作ってくれる。ハイボールも作ってくれる。上等なウイスキーも、平然と水で割られる。希釈の度合いは、しばしば10倍以上に及ぶ。スコットランドの人から見れば、信じられないような飲み方だろう。

 日本に水割りが浸透したのは、これまたサントリーの普及活動によると思うのだが、どうか?

われわれは大きな金額を理解できない

2013-06-07 05:37:12 | 経済
 先日、アフリカの50か国ほどの首脳が横浜に集結した。その席で安倍首相は、今後5年間で、官民合わせて3兆2千億円の資本をアフリカに投入すると約束した。アフリカのインフラなどを整えて、最後のフロンティアと言われるアフリカに日本も参入すると言うのだ。

 大きな数字になると、われわれはその規模が実感できなくなると、いつぞや述べた。3兆2千億円という数字が、どれくらいの大きさなのか、にわかには分からない。そこで私は、なにかモノの値段に置き換えて理解することを提唱した。

 イージス艦1隻の値段が2千億円である。と言うことは、3兆2千億円とはイージス艦が16隻も買える莫大な金額である。日本はイージス艦を6隻しか持っていないことからも分かる。(アメリカは約30隻、持っている。)

 ここで「官民合わせて」と言ったところに言葉のマジックがある。「官民合わせて」と言うと、官と民が半々という感じがするが、そうではない。官のほうは実は1000億円しか出さないのだ。あとの金額は民に期待されている。

 では1000億円とはどれほどの数字だろうか?

 イージス艦の値段の半分で、1隻丸ごとは買えない。しかし、640億円の東京スカイツリーなら1本以上買える。逆に考えると、イージス艦の値段を考えれば、東京スカイツリーは、そんなに高価ではないのだ。

 われわれは1万円や10万円のことは実感として理解できるが、億を超えると、いっぺんに分からなくなる。国家規模の金額になると、とうてい理解できない。だから、誤魔化されないようにモノに換算して考えるように私は奨励してきたのである。

エステサロンとスポーツジム

2013-06-06 04:23:07 | レジャー
 20年ほど前、若い女性の知人が「将来、エステティシャンになりたい」と言っていた。

 別の若い女性にその話をすると「エステは一時の流行に過ぎません。本当に効果があるのか分からないし、資格も必要がないです。したがって、エステティシャンになりたいという希望は、時流に流された甘い考えだと思います」と答えた。

 私は後の方の女性が思慮深いと思った。ところが現在でもエステはすたれる気配がない。チェーンのエステサロンもあって、けっこう繁盛している。20年前の私の予想とは違っている。

 だが、エステサロンで雇われている女性に話を聞いてみると、ノルマがあって遅くまで働かされる割に収入が少なく、辞めたいと思っている従業員が多いのだそうだ。

 エステは経営者だけ儲かって、従業員は使い捨てにされているのだろうか?エステの従業員は若くて美人な娘が多い。従業員を若さとルックスで選んでいるようにも見える。その意味では、20年前に「甘い」と評価した女性の方が正しかったのかもしれない。

 同じく20年前、体力づくりの道具として「自転車こぎ機」が流行って、スポーツジムに置かれた。私は前に進まない自転車なんて、ハツカネズミの輪のようなもので、じきに飽きられてしまうだろうと思った。ジムもやがてすたれるだろうと考えた。

 ところが「自転車こぎ機」は依然としてなくならないどころか、ルームランナーという、ベルトコンベアのようなものの上を歩く装置まで出てきた。

 今、スポーツジムは繁盛している。若者から老人まで、ジムを愛用している人は私の周りにも沢山いる。ジムは体育大学卒業生の重要な就職先のようである。

 今やエステもジムも盛んである。20年前の私には、多くの大衆がこれほど自分の肉体を磨くようになるとは想像もできなかった。自分の肉体に大金をかけられるほど、日本は裕福になったということか?

 もっとも20年前には、病床をもたないで精神科や心療内科が地方都市で開業できるかどうか、いまひとつはっきりしなかった。つまり、地方の人々が自分の精神衛生にお金をかけられるかどうか、また、精神科、心療内科という敷居が高い科の門を気軽に叩けるようなるかどうか、まだまだ予測不能な面があったのである。

アンジェリーナジョリーさんの乳房切除

2013-06-05 00:31:52 | 医療
 女優のアンジェリーナジョリーさんが癌予防のために乳房を切徐したと話題になっている。正確には「乳房」ではなく「乳腺」である。乳房の皮膚には手を付けないから、再建すれば乳房の外見は変わらない。

 あまり知られていないことだが、アメリカではすでに癌予防のために乳腺切除を行う女性がいた。ただし彼女らはアンジーのようには讃えられず、むしろ癌にかかったわけではないのに正常な乳腺を切除して、もう乳癌にはかからないと喜んでいる変な女性と捉えられていた。そんなに癌を気にするなら子宮や卵巣や、果ては胃や腸まで切除しなければおかしいじゃないか、と批判されていた。

 浅学ながら遺伝性の乳癌というのは初耳だった。日本の医学界では遺伝性の乳癌があるという情報はなかった。遺伝性の癌で知られているのは家族性ポリポージスだけだった。(これは将来、必ず大腸癌になる。)

 さいきん遺伝子がよく研究されて、遺伝性の乳癌が言われだしたようだ。だが、遺伝子のことが分かるようになる前から、経験的にはとっくの昔に分かっていたはずだが、そんな報告はこれまでに聞いたことがない。

 医学的知見は移ろい易いものだ、そのうちにアンジーの行動はやはり馬鹿げていると批判される日が来るような気がする。

精神障害者差別法案が上程される!!

2013-06-04 00:03:33 | 医療
 さきごろ立て続けに起こった、てんかん患者による悲惨な交通事故をきっかけに、てんかんを持っていることを申告せずに交通事故を起こした時の罰則が強化されようとしている。

 特定の病名を欠格事由とするのは不合理である。病名ではなく、状態像で判断すべきである。

 てんかん患者の罰則強化については、一部で報道されている。だが、まったく報道されていないが、この改正案には別のきわめて重大な欠陥がある。

 統合失調症と躁うつ病も罰則が強化されることになったのだ。なぜだろうかと思う。統合失調症者や躁うつ病者が特別に交通事故を起こしやすいという統計データも何にもないのにだ。データがないことは警察庁も認めている。つまり法制審議会は、非科学的なことを平気で論議したのだ。

 これは根拠のない差別である。まあ、根拠がないのに不利益を与えることを差別というのであるが・・。

 こうした差別法案が法制審議会の原案として可決された。日本精神神経学会は、法制審議会に対して精神科医の意見も求めるように要望したが、拒否された。なぜ拒否して素人だけで決めようとするのだろうか?(反対するに決まっていると思っていたのだろうか?)

 精神科医のあずかり知らぬところで差別法案が国会に提出されようとしている。これまで欠格条項は順次撤廃されてきた。今回の法案は、それを元の木阿弥にしてしまう。

 私が精神障害者リハビリ施設で働いていたころ、公営プールに精神障害者は入れなかった。プールの玄関に堂々とその旨が書かれていた。

 今回の法案は、公営プールは精神障害者お断りという類の風潮を、復活させようとするものだ。ご丁寧にも法律で差別を奨励しようとしているのである。かつてハンセン病は法律で差別されていた。それと似たようなことになる。

 日本精神神経学会は声明を出しているが、マスコミが取り上げなければ誰も気が付かないだろう。

 読者の中には精神障害者が生理的に嫌いだという方もおられるかもしれない。でも、交通事故率は健常人となんら変わらないという事実は知っておいていただきたい。

金魚すくいの意地の悪さ

2013-06-03 02:57:00 | レジャー
 祭りの金魚すくいは夏の風物詩である。そのためか「金魚」は俳句では夏の季語だ。金魚は一年中存在しているが、俳句では「夏」ということになっている。

 季節特有でない事物が季語となっていることは、しばしばある。「噴水」や「滝」も年間を通してあるにもかかわらず、いずれも夏の季語である。こうした約束事によって、俳句は17文字という制約があっても、かなりの内容を言うことができる。

 私が金魚すくいを初めてやったのは、小学校低学年だっただろうか。針金に張ってある紙はすぐに破れてしまって、一匹も釣れなかった。残念賞の金魚が一匹貰えたが、何匹も釣ろうと思っていた私には不満だった。

 このとき、私は金魚すくいというゲームに意地の悪さを感じた。釣る道具がわざと破れやすく作ってある。釣れそうで釣れないように悪知恵がこらされている。

 毎年夏になると、金魚すくいの水槽を囲んで歓声が起こるが、私はあのように素直に残念がったり喜んだりできない。

 極端なことを言うと、金魚すくい屋の親父の悪意を感じた。だから、その後私は、金魚すくいを一切やらなくなってしまった。

男女雇用機会均等社会になるずっと前

2013-06-02 00:26:23 | 社会
 映画「三丁目の夕日」の時代、国民の80%は農民だった。「三丁目の夕日」の街は東京の下町で、当時の農村から見れば、驚くほど裕福な暮らしをしていた。

 都市は工業化を遂げ、大量の人手を必要としていた。家族労働をしていた「三丁目の夕日」の「鈴木オート」や「茶川商店」では家族以外の労働力を求めていた。東北の農家を初めとした田舎では、経済的な理由で高校進学ができない子弟が多かった。東京は彼らを「金の卵」として迎え、就職は中学校が世話をした。これが集団就職である。

 農家から見れば、集団就職は(あまり語られないが)「口減らし」の意味もあった。また女子生徒は自分の母親のような土地に縛り付けられる農婦の仕事を嫌った。

 当時の東京への流入人口は年に30万人とも40万人とも言われている。

 このころ実はホワイトカラーという層が東京にあった。ホワイトカラーとは高等教育を受け、背広で仕事をする人々である。彼らは街の商店の人々より、さらに裕福な暮らしをしていた。「鈴木オート」や「茶川商店」の人々はホワイトカラーではなく、ブルーカラーである。

 ホワイトカラーの妻は専業主婦だった。彼女たちは「奥様」と呼ばれ、夫の世話や家事がもっぱらの仕事で、余暇にはお茶やお華をたしなんだ。このような優雅な生活は、ブルーカラーの妻たちの憧れだった。

 農家の婦人は、赤ん坊を柱に繋ぐような児童虐待まがいのことをして、毎日野良に出た。夜は家でまた家庭内労働である。こうした母親の姿を見てきた農家の娘たちには、優雅に過ごしている東京の「奥様」すなわち専業主婦は、まったく別世界の人だった。

 少なくともあの時代、「奥様」はなろうとしてもなれない、特別な位置にあった。

 その後、東京を初め日本は著しい経済成長を遂げ、ホワイトカラーが急増した。その妻たちは憧れの「奥様」の座に就くことができた。東京は住宅難だと言われていたが、2DKのモダンな集合住宅が次々と作られ、ホワイトカラー層はそこに入居した。

 ホワイトカラーの妻には高学歴の女性が多かった。彼女らが、やがて「自己実現」するために「社会進出」が必要だと言い出して、昨日書いたように男女雇用機会均等社会へと突き進むのだが、見方によっては、彼女らはせっかく手に入れた憧れの専業主婦の座を、自ら捨てようとする挙に出たようにも見えるのである。