院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

ももいろクローバーZが人気な理由

2014-05-17 05:03:27 | 音楽
(講談社刊。)

 AKB48を初め、いまはアイドルグループの戦国時代といわれている。その中で、ももいろクローバーZがなぜ突出して人気があるのかが分からなかった。他のグループに比べて芸があるわけでも美人なわけでもない。

 ロックグループやフォークの歌手はむかしから紅白歌合戦などのテレビ番組には出なかった。それは、テレビに出ると安く消費されて、神秘性がなくなってしまうからだと思っていた。むろん、それもあったようだ。

 だが、最近の野外ライブは楽曲そのものが野外ライブ用に作られているらしい。楽曲自体がテレビで観客なしに演じるには向かないのだ。

 サビは楽曲の途中から出てきて曲を盛り上げる部分だが、最近は「前サビ」といってあらかじめサビを提示してしまう。さらに、一曲内で何度もサビを繰り出して、ライブ客を乗せまくるのだという。

 ももクロの楽曲はすべてその調子で、野外ライブで客が飛び跳ねるのを織り込んで作曲されている。客のほうもわざわざ飛び跳ねに来るので、そのような曲を好む。そこには、出演者と客の了解がすでに出来上がっているのだそうで、座らないで飛び跳ねるライブのスタイルが確立しているらしい。

 また、最近のタレントはライブの入場料でだけで稼ぐのではなく、同時に売り出されるグッズの比重が相当に大きくなっているという。タレントの写真やロゴが入ったタオルや団扇がけっこうな高値で売られているわけがようやく分かった。

 以上は上の本に書いてあった。ゴーストライターが書いたのだろうが、内容はマキタスポーツのものだろう。娯楽さえもセオリーに従って「工業的に」量産されているというのが、著者の主張である。読みやすく、面白かった。

続・健康食品(サプリメント)の効能書き解禁によせて

2014-05-16 00:01:41 | 医療
 「有意水準5%で仮説は採択される」というと難しいが、大ざっぱにいうと「ある薬が効く」と主張する研究論文が20編あると、そのうち1編(5%)程度は「効かないのに効くと主張している誤った論文である」と理解してもよい。

 研究者は「効く」と信じたから論文を書いた。もし「効かない」という結果しか出なかったら、研究者はその事実をいちいち論文にしない。つまり、「効く」という論文しか世に出ない。これを「出版バイアス」という。世に出なかった「効かない」というデータを、ネガティブデータと呼ぶ。

 ネガティブデータが世に出ないと、薬に関する情報が偏ってしまう。そのため、すべての薬の治験データを登録せよという運動が起こっている。

 医者が使用する「真正の薬」でさえ、こうして物議をかもしているのだから、サプリメント会社に「何々に効く」なぞと言わせたらどうなるか、結果は明らかである。

健康食品(サプリメント)の効能書き解禁によせて

2014-05-15 05:31:18 | 医療

愛知県衛生研究所のHPより引用。)

 製造会社の自己責任において「何々に効く」と書いて健康食品(サプリメント)を販売してもよいことになるらしい。

 そうすることによって、消費者の見る目が厳しくなって、本当に「何々に効く」食品が生き残って、まやかしの製品は淘汰されると当局は言うが、絶対にそうはならない。逆に、まやかしの食品や物質が一層蔓延することになるだろう。薬が効くか効かないか素人には絶対に分からないから、医者や薬剤師の存在価値があるのだ。

 アメリカは今までサプリメント天国だった。サプリメントどころか、日本では医者にしかもらえない薬が普通に薬局で買えた。だが、ここにきてサプリメントが効能通りでないと訴える人が出てきて、サプリメントの反省期に入っている。

 このブログで私は、薬品の二重盲検試験の重要性を口をすっぱくして言ってきた。また、二重盲検試験は研究者の良心にかかっていて、試験をしなくても論文が書けることを指摘した(2013-07-13)。

 今後、サプリメントを売りたいがために、やってもいない二重盲検試験の論文がたくさん出てくるだろう。そして、サプリメント長者がますます出てきて、中には論文の捏造がバレてお縄になる長者が生まれるだろう。一人か二人お縄になって、他の多くの長者はおとがめなしで、うどん粉を丸めただけの「薬」は一層跋扈するだろう。

 以前、ポルトガルに旅行したとき、テレビで盛んに「痩せる指輪」を宣伝していたのには驚いた。これは口に入れるものではない、すなわち食品ではないから、新たな基準は適用されないのだろうか?そうだとしたら、業者は指輪を粉末にして飲ませるように画策するだけだ。

 今回の「規制緩和」は健康シーンや医療界に、手ひどい傷跡を残すだろう。

山陰駆け走り旅(8)(鳥取砂丘)

2014-05-14 01:21:42 | 芸能

(境港近くの浜辺。筆者撮影。)

 上の写真は鳥取砂丘の東側に連なる砂浜である。そこでビーチバレーをしている人たちがいた。写っていない左側にわずかな建物があるが、どんな仕事をしているのかは分からない。

 片山義博さん(下の写真)が鳥取県知事だったころ、水森かおりの「鳥取砂丘」というご当地ソングをバックアップした。水森かおりは片山さんに頭が上がらないはずだ。


復建調査設計(株)のHPより引用。)

 片山さんは今でもコメンテーターとしてテレビに出演するが、おっしゃることがまっとうなので、安心して聴いていられる。片山さんは長期在任は弊害があると、2期で知事を辞めてしまった。優れた人だと思う。

漫画「美味しんぼ」作者の挑発

2014-05-13 20:27:23 | 漫画

(BIG COMIC スピリッツ・2014年5月26日号より。)

 むち打ち症が真正の「疾患」ではなかったことについてかつて述べたように(2011-04-22)、人は思い込まされると病気でもないのに症状を出すことがある。だから確かに風評被害は怖い。

 このたびの漫画「美味しんぼ」による福島の放射線被害に関する表現は、作者による政治への挑発だと見た。双葉町前町長が「真実」を語ろうとして町長を降ろされたとは、ありそうなことである。

 政治が科学を捻じ曲げてきたことは歴史上、明らかである。(例:ルイセンコ事件、ガリレオへの弾圧 etc. )。

 ここで「美味しんぼ」の作者に注意していただきたいのは、客観的に明らかな「症状」だけを取り上げるべきことである。今回の漫画では「鼻血」、「疲労感」、「眼やのどや皮膚の不快な症状」が挙げられているけれども、ここで取り上げるに値する誰の目にも明らかな現象は「鼻血」だけである。

 「疲労感」とか「不快な症状」のような主観的な陳述は他覚的に証明ができず、科学的な分析には耐えられない。むち打ち症ブームの昭和40年代にも「疲労感」は言われていたのだ。

 双葉町が本当に住めない土地であるのかどうかは、何年かすれば明らかになる。そこで初めて、「美味しんぼ」の作者が正しかったのか、漫画の作者に抗議をした福島県知事(今は立場上、そうせざるをえないが・・)が正しかったのかが、科学的に証明されるはずだ。

山陰駆け走り旅(7)(べた踏み坂)

2014-05-13 03:15:33 | 社会


 アクセルを全開にしないと登れないように見える急坂が、テレビのCMで話題になっている。

 境港に来る途中、その坂を通った。目の錯覚か確かに大変な急坂に見える。行きも帰りもあたりには写真を撮る人々が群がっていた。

 CMの製作者も面白い題材を見つけたものだ。私も車中から写真を撮った。それが上の写真である。

山陰駆け走り旅(6)(ゲゲゲの鬼太郎ロード)

2014-05-12 04:17:49 | 漫画
 昭和40年ころの高校時代、私は『月刊ガロ』と『月刊COM』を購読していた。『月刊COM』には一コマ漫画をコンテスト欄に投稿して、毎号掲載された。一席になったこともあった。評論家がコメントを書いてくれたが、内心「自分で描けないくせに、なにを偉そうに」と思っていた。

 そのころすでに、水木しげるは大人気で、私も単行本をもっていたが、それが何の漫画だったかは忘れた。少なくとも「ゲゲゲの鬼太郎」ではなかった。「ゲゲゲの鬼太郎」は元は「墓場の鬼太郎」といって、もっと毒があった。それがテレビに取り上げられたときには「ゲゲゲの鬼太郎」という軟弱な題名になって、それゆえか大ヒットした。

 (同じころ、『月刊ガロ』につげ義春の漫画が載った。あまりに面白いので発売日が待ち遠しかった。つげ義春は元は水木のアシスタントで、背景が細かく黒っぽくて人物が白っぽいところは二人に共通する。)

 そんな思い出もあって、境港の「ゲゲゲの鬼太郎ロード」に立ち寄った。鬼太郎や目玉の親父や各妖怪のキャラクターが小さなブロンズ像になって、道路の各所に置かれていた。GWだからだろうか、けっこうな人通りがあった。


(ゲゲゲの鬼太郎像。筆者撮影。)

 この道がなければ、境港は何の特色もない寂しい港町である。ロシア語の看板を出したスナックがあったから、ロシア人船員が立ち寄るのだろうか?

 正義の味方になって毒が抜けた鬼太郎なんて面白くも何ともない。同時代に鬼太郎を知っている私たちが死に絶えたら、「鬼太郎ロード」も忘れ去られるだろう。そして近くのスナックのママは、再びロシア人船員のお相手をして糊口をしのぐことになるのだろう。

山陰駆け走り旅(5)(地元の人の食事事情)

2014-05-11 01:14:06 | 食べ物
 観光旅行に行くと食事は旅館で観光客向けの料理を食べさせられることになる。だから昼食くらいは現地の人が食べているものを食べてみたくなるのだ。

 だが出雲市は町全体が観光客向けにできているようで、地元の人が行くような食べ物屋が見つからない。見つけようとしても町がごったがえしていて満員だったりする。

 そこで食事はスーパーのフードコートで摂ることになる。どこの地方都市でもそうだが、最近は繁華街がシャッター通りになっていて、地元の人さえ行かない傾向がある。(なぜシャッター通りが生まれたか、それはアメリカのせいだと 2011-05-15 で解説した。)


(スーパー「ゆめタウン出雲」。木村工務所HPより引用。)

 地方都市のスーパーはいつでも繁盛している。中国四国地方で勢力を張っているらしい「ゆめタウン」というスーパーも同様だった。広大なスーパーである。GWでもどこにも行かなかった地元の人で込んでいた。フードコートも午後3時くらいになってもまだ家族連れで昼食を摂りに来る人たちがいる。

 さすがにフードコートではうまいものは食べられない。私たち一行も昼食はラーメンやお好み焼きで済ませた。でも一食1コインで済んだ。

山陰駆け走り旅(4)(玉造温泉)

2014-05-10 18:01:53 | 食べ物

(玉造温泉、「佳翠苑 皆美」全景。筆者撮影。)

 玉造温泉は奈良時代からある古湯だという。近隣の花仙山はメノウの産地で、この場所で300年間にわたり勾玉が制作されたので「たまつくり」の名があるという。

 古代、勾玉つくりは一つの産業だったようだ。ただ、メノウの勾玉がどこに売られたのかは勉強していない。というのは、古墳時代の古墳から出土する勾玉は多くがヒスイ製のはずだからだ。

 上の写真の旅館に泊まった。適当に選んだ旅館で、私は何の期待もしていなかった。かねてより旅館の料理は安くてうまくもない材料で多種類を作り、食べきれないほど客に供することを私は批判していたからだ(2006-08-11)。

 この旅館でも、まず突き出しに胡麻豆腐が出た。それに胡麻ダレをかけて食べよというのだ。「この旅館もまた変なものを出すなぁ」と期待せずに食べたら、それがうまいのである。胡麻豆腐に胡麻ダレがこんなに合うとは知らなかった。

 続いて出てくる献立の全部がうまい。刺身も煮物も焼き物もだ。こんな料理なら料亭で出しても恥ずかしくない。料理がうまい観光旅館は私には初めての経験だった。デザートの紫芋のムースも食べたことがないうまさだった。温度も量も適切で、食べ残すこともなかった。

 さらに、翌朝のバイキングもうまかった。洋食でもうまいのだ。スクランブルエッグが普通のものと違う。生クリームでも入っているのだろうか?家では作れない味だ。またサラダのドレッシングがうまい。訊くと昨夜の料理と同じ料理長の手になるという。突き出しが上手い料理人は煮物も焼き物も上手いのだ。そして、洋食までも。これは、むかしからの常識である。

 その料理長とはお名前を渡部学氏という。あえてお名前を記して、ここにお礼申し上げたい。

 この旅館、佳翠苑 皆美(みなみ)の料金は玉造温泉の他の宿とも別の観光地の宿とも比べて特段高いわけではなく、GW料金で23,000円ほどだった。(同程度の料理を東京の料亭で食すと、25,000円程度はかかると踏んだ。むろん、東京の料亭では泊まりも朝食もない。)


(食事会場は家族毎の個室、椅子席。)

山陰駆け走り旅(3)(季語「神の留守」)

2014-05-09 22:29:46 | 俳句

(出雲大社境内。筆者撮影。)

 10月ころには日本全国の八百万の神々が出雲大社に大集合するために、日本じゅうから神様がいなくなるので10月を「神無月」という。だから、11月ころの季語に「神の留守」という言葉がある。(逆に出雲ではこの月を「神在月」という。)

 「神の留守」には(神様さえいなくて)寂寞としているという意味がある。現代ではこの季語にはいくぶん滑稽な響きがある。この言葉は芭蕉の時代にすでに季語として成立していた。次のような俳句がある。

     留守の間にあれたる神の落葉かな  芭蕉

 ただし、各地に神社が建てられた1,000年以上前には必ずしも出雲大社がすべての神社の中心というわけではなかった。神々が出雲に蝟集すると言い始めたのは、つい最近、江戸時代が始まる前後の出雲大社の神主らしく、むろんPRだった。

 一神主のPRが日本人の宗教観に影響し、月の呼び名や季語にまで採用されてしまったとは面白い。

山陰駆け走り旅(2)(出雲大社)

2014-05-08 18:02:07 | レジャー

(出雲大社本殿、写真はすべてウィキペディア「出雲大社」より引用。)

 出雲大社については古事記、日本書紀に記載がある。だが、江戸期に八百万の神が神無月(10月)に出雲大社に大集合すると言われるようになってから、ようやく全国の信仰を集めるようになったらしく、それ以前のことがほとんど分かっていないのは、松江城と似ている。

 平成12年、境内から3本の大柱が発掘され、出雲大社はもとは高層建築だったと分かった。


(発掘された柱。直径1メートルほどの大木が3本組まれている。)

 発掘された柱は鎌倉時代のものと考えられ、わずかに鎌倉時代のことでさえ、ほとんど分かっていないことに驚かされる。当時、山陰は都から見れば辺境だったのかも知れない。


(柱から推定された、当時の社殿の構造。長い階段が前面にあったと考えられている。)

山陰駆け走り旅(1)(松江城)

2014-05-07 19:49:48 | レジャー

(ウィキペディア「松江城」より。)

 まず松江城に行った。黒が主体の美しい城だ。関ヶ原の戦いで戦功があった堀尾氏の居城である。

 だが、それ以前にこの地はどうなっていたのか、皆目分からない。歴史資料館は「出雲国風土記」がわが国でもっとも完全な形で残っていることを誇っていた。各地方の風土記作成は太政官の命令によるものだから、この地が8世紀にすでに律令制の洗礼を受けていたことが分かる。

 だが、それ以降、戦国時代までの歴史は漠然としか知られていないようだ。

 GWのこととて松江城は観光客でごったがえしていた。車のナンバーは四国と関西が主だった。現地の人が「観光客が来て金を落としてくれる」と言っていた。ふだんは閑散としているのだろう。

どこが「豪華客船」か!?

2014-05-03 00:11:42 | レジャー

BS11のHPより引用。)

 豪華客船の旅とは、客船の最上級の客室に滞在し、1,000万円も2,000万円もかけてクルーズするという観念があった。海軍に習って客船にも客室に等級があり、レストランも等級ごとに別で、船内にくっきりと差別があった。

 マスコミがあまりに豪華客船と騒ぐので、客船業界には大衆化路線の邪魔になるという意見もあった。だが、クイーンエリザベス号でさえ3世になると、すっかり大衆化して、てごろな運賃で乗れるようになった。そこには、航空業界との競争があったからだ。

 今の「豪華客船」はもっと庶民的になった。船全体がマンションを横にしたような形になり、値段も10万円、20万円という単位になった。それなのに、まだ「豪華客船」のイメージで売っている。テレビでは「豪華客船の旅」といった番組を流し続けて「豪華」のイメージを保とうとしている。

 だが、ビジネスホテルのような客室で、ホールでジェンカを踊るような船のどこが「豪華客船」だろうか?「豪華」の意味は、懸賞が自らの賞品を「豪華賞品」と自称しているのと同じである。

戦後の風呂の変遷(2)

2014-05-02 05:00:01 | レジャー

ナガシマ・リゾートHPより引用。)

 昭和38年、三重県長島町で天然ガスの掘削中に偶然、温泉が見つかった。そこは長嶋温泉として売り込まれたが、遊園地を併設してからブレークし、名古屋近辺の子どもたちの人気を博した。名称をスパーランドナガシマと改称した。(スパーはSPAで温泉の意。)面積は東京ディズニーランドに次ぐ。

 だが、スパーランドは他の遊園地と違って、むかしのヘルスセンターの色を残している。だから、歌謡ショウを毎日やる。大浴場があって、よく利用されている。東京ディスニーランドが、所帯じみた日本臭さを極力排したのとは対照的である。

 遊園地に遊びに来た子どもたちが、何の疑問もなく大浴場に入りに来る。温泉と遊園地のセットが成功したわけだ。歌謡ショウも未だにやっているから、ニーズがあるのだろう。(私はお金を貰っても見たくないが。)

 私が大学生だった昭和40年代後半ころ、広範囲に流行したのがサウナである。サウナと風呂とショウが合体して、各地に健康ランドなるものができて、生き残るものは生き残り潰れるものは潰れた。

 昭和60年ころから、スーパー銭湯というのが流行り始め、未だに頑張っている。銭湯の3,4倍の料金で、家族連れで一日遊べれば御の字だろう。

 テレビを見れば温泉地めぐりの番組をやっている。本当に日本人は風呂が好きなのだなぁと感心する。映画「テルマエロマエ」の第2作目が上映中だが、風呂をテーマにしたこのような映画は、外国人にはどこが面白いのかまったく理解できないだろう。

戦後の風呂の変遷(1)

2014-05-01 00:05:25 | 生活

テルマエロマエ2HPより引用。)

 昭和30年代の幼少期、私は東京都心に住んでいたが、風呂は薪で炊いた。風呂桶は文字通り木の桶でヒノキの香りがした。薪割りは父親の仕事だった。薪は魚屋から魚の箱をもらってきたりした。(当時、魚は木の箱に容れられて運ばれた。発泡スチロールはまだなかった。)

 内風呂があっても、しばしば銭湯に行った。内風呂は沸かすのが大変で、銭湯に行った方が簡便だった。

 小学校3年のころに、タイル張りの風呂に替えた。同時に火力はガスになった。タイル張りの風呂は冷たく、湯が温まるのが遅かった。むろん、木の香りもしなかった。

 大学卒業後、10年くらいしてから、名古屋の山奥に中古住宅を買った。その家の風呂はプラスチック製だったが、どんなセンサーも付いていなかったため、水を溢れさせたり、沸かし過ぎて沸騰させたりしてしまった。

 現在の風呂は、水位センサーも温度センサーも付いているから、ほっておいても平気だ。「追い炊き」というボタンがあって、湯が冷めたらそのボタンを押すだけでよい。

 昨日使った湯を取り換えないで、また沸かすことを「立て返し」という。現在の風呂には「追い炊き」ボタンしかないから、それを押して立て返しをする。そのためだろう、妻は「立て返し」のことも「追い炊き」と呼ぶ。

(恩師よれば、東京の銭湯の主の祖先は70%が石川県出身なのだそうだ。)