「今年はフジの花がきれいに咲いたね。」というと、母はきまってこう言う。「そんなことはないのよ。野生のフジだからね」と。咲かない年も同様だ。
「野生のフジだから」という応答にはきっとこんな意味が隠されている。今年のように美しく花を咲かせているときは、「いえいえ、そんなことありません」という謙遜の意味である。そして咲かなかった年は「野生のきまぐれさ」を肯定しているのである。
母がいうのだから、実家のフジは「野生種」のフジであり、観賞用に空をあおぐ隙間なく、花がびっちりと垂れ下がるフジとは違うらしい。しかし、それがわが家のフジである。今年はきっと庭師がきれいに剪定してくたから、花をつけたのだろうと思う。だいたい2年前は私が適当に切ったくらいだから。
フジの花がたくさんつこうが、つくまいが、国分寺にはこの花を境に暖かな春が訪れる。ちょっと外を動けば汗ばむような春が。そんな季節到来のメルクマールとしてのフジ。私は子どものことから、このフジをそんな風に見つめてきたし、今なお変わらず眺めている。そう、私の嫌いな冬は去り、「私の季節」がやってきたのだ。