バリの観光地にはまるで原宿の竹下通りにあるような間取りが小さい割には洒落た店が乱立し、そんな店屋のいくつかを日本人向けの観光ガイドブックはこれぞとばかり書き立てている。別にそれ自体は何の罪もないし、バリも変わる。(同時に世界も変わる)。しかし、ぼくのような旅人にはそのどの店にも見た目にはそうは変わらないものが並んでいて、あまりにも売られているものが似ているためにみずからのアイデンティティを主張するのに苦労している気もする。たとえば、八百屋の店先にロブスターが並んでいるようにはいかないようだ。野菜を期待している旅人は、その産地とか、形とか、色とか、(もちろん味とか、でも買って食べてみないとわからないのだが)そんなもので何か自分にふさわしいであろうものを都合よく決定しようとする。「彼は透き通るような紺色が好きだから」なんていいながら。
ぼくはそんな店よりも、店先の上からいかにも安物とわかるようなTシャツを無造作に吊り下げ、店内には無秩序に服やズボンをかけたアルミ製の洗濯もの干し台のようなハンガーフレームが並べられている薄暗い、蚊の巣窟のような店屋の真昼の風景が大好きだ。生ぬるい風がTシャツを揺らし、店員はたぶん早い昼食をおえて、店の奥でうつらうつらと時を過ごす。店先に観光客が立ち止まったことすらも気がつかない。彼らは西の空が夕焼けにそまるそんな時間から、店先の床に腰を掛けて、行き来する「外国人」を下から眺め、「ハロー」と奇妙は笑顔で声をかける。
でもたいていは立ち止まらない。多くの西洋人たちは礼儀正しく「ハロー」とまるでまったく意味の違う言語を言い返したような発音で返答し、足早に過ぎ去っていく。店員は決してそんな「西洋人」の後姿を追ったりしない。そこで終わり。ゲームオーバー。いやいや、ゲームはまだ始まってない。彼らはきちんと「ハロー」と返答することでゲームに応じる意思がないことを明確に示している。一方、日本人の多くは、ただ黙って通り過ぎる。たぶん「ハロー」という意味がわからないんだろうと店先の店員は心であざ笑う。「ぼくの方が言語能力にすぐれている」
だからもう一度、彼らはそんな日本人に声をかける。もちろん足早に去っていく日本人の後ろ姿に向かってこういう。彼らにわかりやすく、彼らの言語で、「安いよ。千円」
それを「うざい」とか「耳障り」と言える資格なんてない。ぼくたちは彼らのゲームの誘いに礼儀正しく拒絶の意志を表していないからだ。「ハロー」といえない日本人は、もしかしたら自分を振り返ってゲームを続ける意思があるんじゃないかと、ほんのわずかな期待を込めて、彼らは誘っているんだ。それは、ほんとうに微小な期待なのだけれど、それが彼らと私たちのゲームを始めるためのルールなのだ。(9月11日、デンパサールで記す)
ぼくはそんな店よりも、店先の上からいかにも安物とわかるようなTシャツを無造作に吊り下げ、店内には無秩序に服やズボンをかけたアルミ製の洗濯もの干し台のようなハンガーフレームが並べられている薄暗い、蚊の巣窟のような店屋の真昼の風景が大好きだ。生ぬるい風がTシャツを揺らし、店員はたぶん早い昼食をおえて、店の奥でうつらうつらと時を過ごす。店先に観光客が立ち止まったことすらも気がつかない。彼らは西の空が夕焼けにそまるそんな時間から、店先の床に腰を掛けて、行き来する「外国人」を下から眺め、「ハロー」と奇妙は笑顔で声をかける。
でもたいていは立ち止まらない。多くの西洋人たちは礼儀正しく「ハロー」とまるでまったく意味の違う言語を言い返したような発音で返答し、足早に過ぎ去っていく。店員は決してそんな「西洋人」の後姿を追ったりしない。そこで終わり。ゲームオーバー。いやいや、ゲームはまだ始まってない。彼らはきちんと「ハロー」と返答することでゲームに応じる意思がないことを明確に示している。一方、日本人の多くは、ただ黙って通り過ぎる。たぶん「ハロー」という意味がわからないんだろうと店先の店員は心であざ笑う。「ぼくの方が言語能力にすぐれている」
だからもう一度、彼らはそんな日本人に声をかける。もちろん足早に去っていく日本人の後ろ姿に向かってこういう。彼らにわかりやすく、彼らの言語で、「安いよ。千円」
それを「うざい」とか「耳障り」と言える資格なんてない。ぼくたちは彼らのゲームの誘いに礼儀正しく拒絶の意志を表していないからだ。「ハロー」といえない日本人は、もしかしたら自分を振り返ってゲームを続ける意思があるんじゃないかと、ほんのわずかな期待を込めて、彼らは誘っているんだ。それは、ほんとうに微小な期待なのだけれど、それが彼らと私たちのゲームを始めるためのルールなのだ。(9月11日、デンパサールで記す)