Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

古典的みやげもの屋の風景

2009年09月28日 | バリ
 バリの観光地にはまるで原宿の竹下通りにあるような間取りが小さい割には洒落た店が乱立し、そんな店屋のいくつかを日本人向けの観光ガイドブックはこれぞとばかり書き立てている。別にそれ自体は何の罪もないし、バリも変わる。(同時に世界も変わる)。しかし、ぼくのような旅人にはそのどの店にも見た目にはそうは変わらないものが並んでいて、あまりにも売られているものが似ているためにみずからのアイデンティティを主張するのに苦労している気もする。たとえば、八百屋の店先にロブスターが並んでいるようにはいかないようだ。野菜を期待している旅人は、その産地とか、形とか、色とか、(もちろん味とか、でも買って食べてみないとわからないのだが)そんなもので何か自分にふさわしいであろうものを都合よく決定しようとする。「彼は透き通るような紺色が好きだから」なんていいながら。
 ぼくはそんな店よりも、店先の上からいかにも安物とわかるようなTシャツを無造作に吊り下げ、店内には無秩序に服やズボンをかけたアルミ製の洗濯もの干し台のようなハンガーフレームが並べられている薄暗い、蚊の巣窟のような店屋の真昼の風景が大好きだ。生ぬるい風がTシャツを揺らし、店員はたぶん早い昼食をおえて、店の奥でうつらうつらと時を過ごす。店先に観光客が立ち止まったことすらも気がつかない。彼らは西の空が夕焼けにそまるそんな時間から、店先の床に腰を掛けて、行き来する「外国人」を下から眺め、「ハロー」と奇妙は笑顔で声をかける。
 でもたいていは立ち止まらない。多くの西洋人たちは礼儀正しく「ハロー」とまるでまったく意味の違う言語を言い返したような発音で返答し、足早に過ぎ去っていく。店員は決してそんな「西洋人」の後姿を追ったりしない。そこで終わり。ゲームオーバー。いやいや、ゲームはまだ始まってない。彼らはきちんと「ハロー」と返答することでゲームに応じる意思がないことを明確に示している。一方、日本人の多くは、ただ黙って通り過ぎる。たぶん「ハロー」という意味がわからないんだろうと店先の店員は心であざ笑う。「ぼくの方が言語能力にすぐれている」
 だからもう一度、彼らはそんな日本人に声をかける。もちろん足早に去っていく日本人の後ろ姿に向かってこういう。彼らにわかりやすく、彼らの言語で、「安いよ。千円」
 それを「うざい」とか「耳障り」と言える資格なんてない。ぼくたちは彼らのゲームの誘いに礼儀正しく拒絶の意志を表していないからだ。「ハロー」といえない日本人は、もしかしたら自分を振り返ってゲームを続ける意思があるんじゃないかと、ほんのわずかな期待を込めて、彼らは誘っているんだ。それは、ほんとうに微小な期待なのだけれど、それが彼らと私たちのゲームを始めるためのルールなのだ。(9月11日、デンパサールで記す)


2009年09月27日 | バリ
 満月の翌日、ぼくは人気のない海岸で月を眺めた。ちょっぴり削られた円形の月が暗い海を照らす。海風が少し寒くて、右手で左手の二の腕をさするとおだやかな波のような音がした。向こう側とこちら側にそれぞれやわらかな波がたつ。
 波があるから船は進む。波は呼吸であり、血液の循環を生み出し、喜怒哀楽そのものでもある。月はそんな二つの波を照らす。しかし「私」の波は自らの肉体と精神で制御できるにもかかわらず、「海」の波の力を私たちはどのようにも手にとることはできない。そして「私」の波もまた自らで操作する力を失ったとき、それは「私」の喪失。
 月がそんな「私」の波を照らしながら、微笑む。そして語りかける。
「おまえの波は今日の海のようにおだやかに、やさしく音をかなでているのかい?」
「君に言われるまでもなく、順調さ」とぼくはうそぶき、自らを奮い立たせる。もちろん月がすべてをお見通しなのはとっくにわかっているのだけれど……。(9月8日、デンパサールで記す)


最後の手段

2009年09月27日 | バリ
 帰りが遅くなって近所のお店はすべて閉店。バイクに乗ってコンビニに行くのも疲れて面倒くさい。(言ったところで菓子パンくらいしか食べられそうなものはないのだが。)そんなときの最後の手段が買い置きしてあるインスタントラーメン。私が好きなのはソトー味。Mie Rasa Sotoと書いてあれば、だいたいどのメーカーの味も似たりよったりである。
 このラーメンを食べながら思うのだが、麺を食べ終えた後、このスープにもやし、生の千切りキャベツ、そして春雨と鳥肉のささみをちぎっていれ、最後にシークワーサーを半分しぼったらソトーアヤムになるくらいにスープがいい味なのだ。
 さて食べようと思うと、私の住まいにはラーメンを入れる大きなどんぶりほどの器がない。仕方がないので鍋方式で、小さな器に移して食べる。確かに栄養は偏るけれど一回くらいは大丈夫。食べないという選択肢が一番健康に悪い。(9月10日、デンパサールで記す)


インドネシアで聴くインドネシア・ポップ

2009年09月27日 | バリ
 インドネシアのポップミュージックのCDを日本に買ってきても、帰国するや否やなんとなくその新鮮味が失われて、繰り返し聴かなくなってしまう。それはバリでさんざん飲んでいたコーヒーが、日本では香りのない乾いた味にしか感じないのと同じだ。たとえ帰国した後で聞いても、歌詞を理解しようすることなく旋律としてそれを受容しているだけで、それではもはやポピュラー音楽の主張の半分以上を無視していることになる。
 インドネシアにいるとき、ぼくの耳はインドネシア語やバリ語に鋭敏になっている。毎日、その言葉だけで生活しているのだし、しかも年間を通して使用する言語ではないから、それだけ神経を尖らせる。必要のないものと必要なもの意識下で判断する能力がないために、なんでもかんでも理解しようと必死にあがく。結局はそんな努力の大半は実に空しい行為であることに気がつくのだが、しかしそうしなければ、大事なものまで目前を流れていってしまって、もうそれを手に入れることは不可能だ。とにかく僕の前を流れていくものを見落とすことなくすべて観察するのが肝要。
 そんなぼくのインドネシアでの耳は、インドネシア・ポップの歌詞をしっかりと捕えて離さない。そして繰り返し次の文章を脳に蓄えて分解する。そしてそれが理解へとつながっていく。言葉をとらえるためにはそんな鋭敏な耳を持たなくてはならない。しかしぼくは日本にいるとき、他言語を理解することのできる耳を瞬時に付け替えることができないのだ(要は語学に才能がないってことだ)。ある一定の時間をかけて徐々に新しい耳へとすり替わっていくのであり、それは小腸が少しずつインドネシアの香辛料に適応していくのと同じだ。(9月7日、デンパサールで記す)

焼きそば(ミー・ゴレン)パン

2009年09月27日 | バリ
 焼きそばパンは私の好物の一つである。コッペパンに焼きそばを挟んで、それを最初に日本で売ったのは誰だかわからないが、きっと焼きそばパンというのはその人の登録商標ではないだろうし、だいたい商標として登録されてなんかいないだろう(調べたわけではない)。それにしても何事も創始者に敬意を表したくなる。
 インドネシアの焼きそば、ミーゴレンは確かに炒めてはいるが、どちらかといえば汁そばの水分が蒸発したものに近い。スープで煮ながら炒めるようなそんな食べ物である。ニンニクと香辛料だけで味付けしたようなものもあれば、豚の煮込んだスープを入れて炒めるもの、とにかくワルンによってその味つけは千差万別。二度と食べたくないものもあれば、1週間は食べ続けても飽きないようなものもある。
 最近はまっているのが、このミーゴレンをバターロールに挟む焼きそばパン。焼きそばだけでは多少物足りないと、少し残った焼きそばをパンに挟む。日本の焼きそばパンの主要な味付けはソース、場合によってはマヨネーズだが、この焼きそばは豚のスープで煮込んだ、ちょいとにんにく風味。高級味の焼きそばパン(ミーゴレン・パン)である。(9月7日、デンパサールで記す)


体の変化

2009年09月27日 | バリ
 以前は辛いものが好きで、一週間は食べ続けても健康そのものだったにもかかわらず、今はもう辛いものを食べると翌日には動けなくなるほどの腹痛と下痢に見舞われる。辛い料理が嫌いになったわけではなく、食べたいという気持ちは以前とまったく変わっていないのに、体の内部が知らぬ間に辛いものを拒絶するようになり、煩悩に引きずられて辛い料理を食べた罰として、私の体内は怒り狂い、私に非情なる体罰を与えるのだ。
 ただし煩悩に敗北するばかりではない。バリの儀礼やらバリの友人と食事をすれば当然、辛い食べ物を拒絶するわけにはいかない。できるだけ除いても、やはり取り込んでしまうものだ。結局、理由はどうであれ結果は同じだ。そして翌日の午前中は苦しみにのたうちまわることになり、場合によれば終日、ほとんどこうして部屋でパソコンに向かうだけの日々になる。
 そんな現状よりもむしろ、私が悲しく感じるのは自分の体の変化である。どうしてこんな風に体質が変わっていくのだろうと。すべては加齢という自分には制御できない時間の経過がそうさせるのだろうか?ある意味、東南アジアに調査にきて、唐辛子を使った辛い料理が食べられないというのは調査者として致命的欠陥であるようにも思えるし、だからといっても不適格者として調査を続けざるをえない。こればかりは自分の努力でなんとかなるものではないらしい。(9月6日、タバナンで記す)


涼しいプールサイドで

2009年09月26日 | 那覇、沖縄
 今日撮影した沖縄のリゾートホテルのプールの写真。よく見るとプールサイドにタオルのかかった何かが見えるでしょう?これ、ガムランです。泳いでいる子どもの水しぶきが楽器にかからないように楽器にタオルがかぶされているんです。
 今年最後のプールサイドでの演奏。沖縄の夏も9月で終わり。10月からホテルもオータムフェアになるのだとか。ガムランの演奏は「秋」には似合わないのかな。 9月の海風はちょっぴり涼しくて、演奏していても8月の演奏のときのように額を流れる汗で苦しむようなことはありません。気持ちよくて演奏も夢心地。なんだかバリのホテルで演奏しているような気分です。
 今回はじめて選曲したスマル・プグリンガンの曲のゆったりとした優しい旋律が、風になびくプールの水面の上をゆっくり流れていくようです。こういうとき、楽器の置かれたプールサイドと逆側のベンチに座って、涼しげな海風を肌で味わいながら、自分たちの奏でる音にそっとふれてみたいと思うものです……。

アザーン

2009年09月26日 | バリ
 今の住まいのそばには大きなモスクがあって、決まった時間に大きな音でアザーンが流れる。録音されたものが流れているのか、それとも誰かが歌っているのかは遠くで音だけを聴いているだけでは判断できないのだが、それにしても昼夜を問わず前触れもなく突然始まり、そのたびごとに神経質な犬が吠えたり、警戒心の強い鳥がはばたいたりする。そしてある時間がくると、何か裏切られたように、あるいは放送中のラジオの電源が突然切れてしまったようにプツリと唐突に終わる。たとえば、カデンツみたいなものがあって、最後はトゥティになったりすると最後を予想できるのだが、いくら神経を尖らして耳を澄ましても、なぜそこで終始するのか理解できないまま静寂が再び訪れる。
 今は断食月で、夕方になるとその日の断食明けのアナウンスがあるし、特に断食に入る明け方と夕方のアザーンは長い気がする。それにしてもバリの断食月はモスリムにとっていい環境とはいえないだろう。人口の大半はヒンドゥーなのだし――ヒンドゥーでもシワラトゥリとよばれる日には断食をするはずだが、それはたった一日だったと記憶する――観光地に行けば、観光客がところかまわず歩きながらハンバーガーをほおばり、ビールを飲んで歩いているのだから。インドネシアでも地域によってはこの時期に営業する食べ物屋は、表から見えないように布を掛けて見えなくするという話を誰かに聞いたことがあるが、ぼくはまだそんな殺風景な町を一度も見たことがない。通りには、アラブのモスリムの女性たちが頭からすっぽりとかぶるジルバッブのような大きな黒い布が、熱帯の太陽の下、あちらこちらに吊り下げられているのを勝手に空想してしまう(そんなことはありえないのだろうが、空想は自由だから大好きだ)。店屋の中から布越し太陽を眺めると、なんだか日食が訪れているような気分になるようだ。しかも12時間以上、地球と太陽は静止し続ける……。ここまでくると妄想である。
 アザーンがモスリムを象徴する音楽であることは、教科書から学んだように知的に理解できるが、もう一つ(それは私にとっての問題である)は、バリの音風景である。バリに最初に行った年から数年間、世話になったホテル、そして留学中のデンパサールの下宿もまた今の住まいと同様にモスクに近かった。そのせいか、毎日繰り返しアザーンを音風景として無意識に知覚し続けた。だからだろうか、今なおアザーンを耳にするとそこがバリであることを強く意識する。文化的な音ではなく、個人的な音。風景は過去の個人的な記憶を呼び覚ます。いい気分だ。そんな風景に吸い込まれそうだ。(9月5日、デンパサールで記す)

新聞屋

2009年09月26日 | バリ
 ぼくは毎朝、デンパサールにいる限り、ほぼ決まった時間に新聞を買いに行く。近くに新聞を紐にぶるさげた屋台がいくつかあるが、ぼくはそういう場所ではまず新聞を買わない。500ルピア高いことが問題なのではなく、その新聞がすでに「誰か」によって読まれているからだ。折り目にはすでに二重、三重のあとが残り、――読まれた新聞であることを隠そうとするために慎重に読まないのだろうか――頁を開いた場所にはあきらかに朝食べたばかりのお菓子の蜜が指紋となって残されているからだ。ぼくは潔癖症ではないが、そんな新聞は許せない。書かれていることの意味が半減してしまうようにも思えてならない。
 だからぼくは、たいていは前日に用意した3000ルピアを握りしめて雑誌や新聞を置く売店までバイクで走る。高額紙幣を渡すと彼らが釣銭を確保するために途方にくれることを知っているからだ(さっきはたまたま1万ルピアを渡してしまって、彼らは予想通り7,000ルピアの確保に奔走していた。しかし新聞屋は決して金額を騙したりはしない)。
 集百部の新聞が床にどさりと置かれていて、私はこの新聞の上から5、6紙目の新聞をとることにしている。なぜなら一番上の新聞はすでに大気にべっとりと触れているし、2紙目から4紙目がその大気の影響を受けている気がするからで、もちろん5紙目以降が何ら影響を受けていないといえる科学的な説明をつけることができないが。ここの新聞はまっさらな、無垢で一切の穢れのない新聞であり、その内容も記事の内容にかかわらず、読んでほしいと訴えているような何か不思議な光を放っているように見える。
 繰り返し言うが私は潔癖症ではない。しかしバリで読む新聞はなぜかこうでなくてはならない。全く乾燥してパリパリの海苔を割るような、あるいは糊のきいたワイシャツに手を通すような、そんな気分になれるのはバリではこの瞬間だけのような気がするからである。私が経験するバリは、どんなに快晴であっても、何かが湿っていて、ダラリとこうべを垂れているように思えるからだ。風になびく巨大なルロンタックがそうであるように。(9月3日、デンパサールで記す)

地図

2009年09月25日 | バリ
 ぼくは部屋に戻ると調査地に関するいくつかの地図を少しずつ作っている。図画の授業の工作に没入するかのごとく、バンジャル・パクラマンとよばれる集落の境界や集会場の位置などを小さく書きこんでいく。地図に向かいながら、そんな風景を思い出すのはとても楽しい一人遊びだ。
小さな村にどうして12もの集落が必要なんだろうかと思うのだが、きっと必要があってそうしているのだろうし。私が住んでいた頃は7つしか集落はなかったのだから。作っているうちに地図には11の集落しか書きこんでいないことに気がついた。何度数えても11しかない。たしかにぼくのメモには番号を振った12の集落が「書かれいる」というのに「描かれている」のは11。
「集落の一つの場所を聞き忘れたんだ。もう一つはどこにあるんだい?」
「それは地図上には存在しないんだよ。ないんだ。描けないんだ。でも存在しているんだよ。だから君の地図には11の集落が記されていて当然なんだ。それが正しい地図なんだよ。」
「でもぼくの手帳には12の集落が書かれている。」
「もう一度言うよ。残りの一つの集落は地図上には存在しない。つまり場所としては存在しない。」
「わからないよ。よくわからない。」
「つまり場所として存在しているのではなく、家族の集合体なんだ。つまり点だよ。点は村のあちこちに存在する。それをつなぎ合わせても場所にはならない。」
「それが集落なのかい?」
「そう。集落にしちゃったわけだ。でも電話ではうまく話せない。だから明日、ぼくはそのことをちゃんと話してあげるよ。とにかく君の地図は正しい。11の集落が書き込まれれば合格なんだよ。そして12の集落が書き込まれて入ればそれはいかにも正しいようで、間違った地図なんだ。」
 地図に書き込むことのできない、場所をもたない集落。12人目のサッカーの補欠だって、たとえ「フィールド」には存在していなくてもベンチの中に書き込むことができるのだ。しかし12人目のフィールドプレーヤーが透明人間みたいに存在しているってわけかい。なんだか不思議な会話だった。結局、ぼくはそれまで村で聞いた話を複雑に繋ぎ合せながら、自分なりに納得しようと努力したが、継ぎ目が大きすぎて結局、頭の中はつぎはぎだらけのままで、このことを考えるのを強制的にやめにした。だからぼくの机には11の集落が書き込まれてきわめて「正しい」地図が残された。(9月3日、タバナンで記す)