Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

核兵器はNO

2009年09月25日 | バリ
 8月末に調査地のワヤン一座の公演に同行した。なんと公演時間は3時間45分。今のバリでこれだけの時間のワヤン上演をするダランはいるだろうか?私はスクリーンの前を陣取って、最後まで飽きることなく楽しくワヤンを観て、記録した。
 ある国の王が、パンダワの持つブラフマストラというとてつもなく強力な兵器を自らのものにしたいとたくらんでいた。ブラフマは火の神、そしてストラは武器を意味し、この武器はこの世を焼き尽くしてしまうとてつもない力を持つ武器なのである。この王は家来をパンダワ五兄弟の三男アルジュナの息子アビマニュに化けさせて、まんまとパンダワ一族からこの武器を奪ってしまう。「化けて何かを奪う」というのは、ラマヤナ物語やスタソマ物語にも出てくるパターンである。ラマヤナでは、ムリチャが金の鹿、ラワナが老僧侶に化けて、シータ姫をラーマ王子からさらってしまう。
 さてワヤンの演目の最後は、ブラフマストラをもつ王とビマの一騎打ちになる。ビマの従者たちは天空の神々に両手を合わせて助けを乞い、敵の王がブラフマストラを使わないことを一心に願うのだが、写真のように最後には我を見失った王はブラフマストラをパンダワ一族に向かって放ってしまうのである!このとき、私のまわりの数人の観客たちから――といって観客は10人ほどしかいなかったのだが――「おーっ」どよめきが起きた。もう観客は小さなスクリーンに集中し、まわりで狂ったように犬が吠えていることなの全く耳に届かない。そのとき、突然空から現れたのか風神バユの子、神猿ハノマンであり、その矢に飛びつくのだ。再び観客はどよめくが、今度は歓声に近い。ハノマンはこの矢を空中で捕獲し、そしてパンダワ一族に返すのである。一方、いつまでたってもブラフマストラが命中しないことにあたふたする王と家来はまさに滑稽だ。空を見上げ、遠くを眺め、同じ場所はいったりきたりする……。
 演目の最後に、ダランは従者の言葉を借りてはっきり自らのメッセージを発した。核爆弾はNOだと。たったこの一言であるが、この演目から伝わるメッセージはとてつもなく大きい。しかしダランが言うまでもなく、マハバラタという古代叙事詩が、ブラフマストラという武器の存在を通して、核兵器の使用に対して現代世界に強く警告しているのだ。マハバラタはある意味、予言の書でもある。(9月2日に記す)


2時間の旅

2009年09月25日 | バリ
 2時間の車旅。ものすごい坂道と急カーブをまるでパリダカに参加しているのではないかと錯覚してしまうほどの猛スピードで車は進んでいく。演奏者の一人は途中、車酔いで嘔吐し、ほとんどのメンバーの顔はB級映画に出てくる幽霊(キョンシー)のように青ざめていく。ハンドルを大きく右、左にきるごとに片方の車輪が空中に浮かぶような感覚を覚え、そのたびごとに数台の楽器のキーがぶつかり、気まぐれに不協和音を発するどこかで聞いたような現代音楽を奏でる。誰も言葉を発さず、ただグンデル・ワヤンの少々のびたミュージックテープの音だけが車内に反響する……。そんな車の中にいるにもかかわらず、不思議とその音楽が耳につくのだ。青ざめた演奏者の達の指は、車のシートを握りながらもかすかにテープに合わせて指を動かしている。無意識の演奏行為。(9月2日、デンパサールで記す)

忘れないもの

2009年09月23日 | バリ
 ワヤンに行く時の車はいつも彼の車と決まっている。普段は乗り合いバスとして使っているが、夕方にその仕事が終わるとワヤン一座と舞台道具を運ぶ「ハイヤー兼トラック」へと早変わりする。そして彼の車のバックミラーには9年前に亡くなった私の師であるダランが作った従者トゥアレンのワヤンのお守りが吊り下げられて、いつも左右にやさしく揺れる。
「いつもね、亡くなったダランがついているのさ。忘れないよ。何十年もぼくの隣に乗っていたからね。ボロボロの背広を着てね。今でもいるような気がするんだよ。」彼は顔をくしゃくしゃにしながら笑う。あれから23年だ。運転手も私も年を重ねた。
 ぼくだって忘れない。一番後ろの席から、楽器やら人形箱やらの荷物がいっぱい積まれたそんな隙間から、一番前の席にどっしり座ったダランの後ろ姿を。ここに座るたびに思うんだ。ぼくはあれから少し大人になったのだろうかと。自分自身をちゃんと見つめることができるようになったのだろうかと……。(9月2日、デンパサールで記す)


「超甘いもの」が食べたくなると……

2009年09月23日 | バリ
 疲れると甘いものが欲しくなる。誰でも同じなのだろうが、私の場合は普段でも甘いものが欲しいうえ、疲れると「超甘いもの」が欲しくなる。そこで20年前にバリで考えだした練乳入り、チョコフレークパンがこれ。
 バターロールを半分に切って、その中にブルーバンドというマーガリン(1980年代、私が留学していた時にはすでに存在していた)をたっぷり塗り、次にフリージアン・フラッグ印(赤いハートのマークが使われている)の練乳をたっぷりかける。ぼくはこの印の文様をオランダのサッカーチームのユニフォームで見たことがあるのだが、それがいったい何を意味しているのかわからない。体中にハートマークをつけてサッカーをするなんて、観戦する方がなんだか恥ずかしい。
 それだけでは終わらない。最後にチョコフレーク(オランダがインドネシアに伝承したもの、オランダ語でハーゲルスラーグ)を練乳が見えなくなるくらいたくさんふりかけて、パンのふたをする。そして……がぶり!ENAK!
 ここでブログの文章は終りにするはずだったが、読み返してみると私の年齢には少々「不健康」な食べ物であることは疑いない。そうだよ。昔と違うんだ。ぼくはいつまでも「あの時」と変わっちゃいないんだと思っても、もう体は別人28号になっているんだ。そんな夢の中にいつまでも入りこまないで現実を直視しないとだめだよ。(9月2日、デンパサールで記す)


天気予報の中毒症状

2009年09月22日 | バリ
 バリの雨は、いったい降り始めるといつ止むのだろうか――もしかすると私がバリを離れるまでずっとこんな天気が続くのではないだろうかと――という不安な気持ちにさせる。その理由はわかりきっている。この雨が天気予報に支配されていない「雨」だからだ。今の私の生活は放送メディアから完璧に切り離されている。部屋にはテレビもラジオもない(ついでにCDも携帯用の音楽プレーヤーも持っていない)。部屋にいると遠くで吠える犬の声だとか、バイクの爆音とか、一日数回、規則的に風にのってやってくるモスクのから流れるアザーンとか、葬式に演奏されるガムランの音色とか、そんな種類の音しか身辺には存在しない。
 こういう生活をしていると、ぼくは天気予報のおねえさんやおにいさん――例外的であるが、弟にそっくりな紳士もテレビのスクリーンに登場する――が作り出した天気に完全に支配されて、踊らされ、振りまわされていることに気づく。「明日は雨」といわれれば、そうであると信じ、雨が降らなければ「天気予報がはずれた」と考えればいいだけだ。自らの思考はそこにはもはや存在しない。彼ら、彼女らの語りが、あらゆる天気に関する不安を一時的に麻痺させてくれる。今日、雨が降っていても「明日には止む」という言葉を固く信じて雨を見つめる。
 天気予報をあえて聞かなくても見なくても、ぼくは天気予報を、毎日1リットル以上は飲むであろう透明な水のように、知らぬ間に体のどこかにとりこんでいるわけだ。そして今の状況のように天気予報という「水分」の補給ができなくなったとき、それは「不安」という中毒症状となって表出される。そうだ、ぼくは知らないうちに天気予報中毒になって、知らぬ間にそれなしでは生きていけない体になってしまっているのだ。(8月31日、タバナンで記す)


釣銭

2009年09月21日 | バリ
 インドネシアの店で買い物をしたり、タクシーに乗ったりして、支払いをしようとすると釣銭がないことが多い。スーパーでは100ルピア、200ルピア程度は釣銭の代わりにキャンディーになって戻ってくることが多く、これについてはもう悪しき慣習となっているが、それにしても釣銭を払わないというのは資本主義経済のルールを遵守しない言語道断の行為である。
 数日前、コンビニで買い物をしたら500ルピアのお釣りがないという。だから500ルピアの釣銭が出ないものを何か買えという。さすがに「必要なものはないから、500ルピアをなんとかしろ」とすごんでみた。さすがに500ルピアはキャンディーでは済まされないと店員もわかっているらしい。しぶしぶ自分の財布や他の店員の財布から500ルピアをかき集め無事に支払われた。しかし、この行為を冷静に見つめていると、なんだか私の方がコンビニの店員から「かつあげ」をしている不良外人に思えてきて、途中で息がつまりそうだった。悪いのは僕じゃないのに……。
 あまりこんなことが続いたので、少し思考を変えて、タクシーの支払いが18,000ルピアだったとき、まず50,000ルピアを出して相手に釣銭がないことを確認し、「細かいのは14,000ルピアしかない」と言ってみた。すると「いいよ、それで」と言ってすんなり降ろしてくれた。これには参った。悪いのは僕なんだ……。本当に僕は悪徳外国人じゃないか。釣銭にルーズなのはよくわかったが、こんなに後味の悪いタクシーは二度と経験したくない。やはり「釣りがない」といわれて悔しい思いをした方が、インドネシアの都市の空気も、不思議と新鮮に感じるのかもしれない。(8月30日、デンパサールで記す)

タワーレコード

2009年09月20日 | 家・わたくしごと
「東急ハンズの坂を下ったところにあるタワーレコードで……」
 テレビで放送されていた演劇のセリフの中にそんな言葉が聞こえて、「あれっ?」と思う。
そうだ。確かにタワーレコードの一号店は、長いこと、渋谷のハンズの坂を下った突き当たりの道のビルのワンフロアーに入っていた輸入CD(レコード)の店だった。ぼくがこの店で最初に買ったCDは、間違いなくステファン・グラッペリである。人生にとってどうでもいいことは案外忘れないものだ。
 あの頃、ぼくは250CCのバイクで渋谷に出かけると、ハンズの坂の途中にあった駐車場にバイクを置いて、この場所から渋谷巡りをはじめるのが常だった。このあたりの路地には小さなレコードショップが集まり、そんな店を一件ずつ回るのが渋谷での楽しみの一つだった。
 あれからどのくらい時を経たのだろう。渋谷のタワレコは今では見違えるような7階立ての大きなビルになった。そして今の場所にタワレコができてから、「東急ハンズの坂」はぼくの中からだいぶ遠ざかってしまった。東京では電車で移動するようになったし、かつてのように有り余るほどの時間を自由に操ることはもうできなくなってしまった。用を済ませれば、次の約束の場所へ向かう……。
 東急ハンズの坂を下ったところにタワーレコードがあったんだよ。知っているかい?そんな時代の渋谷が、ぼくの好きだった渋谷なんだ。



物語りを実証すること

2009年09月20日 | バリ
 ゴング・クビャルは、20世紀の初頭のバリ北部の村に、忽然と現れたかのように言われるがどう考えたってそんなはずはない。試行錯誤が繰り返される中で、今、私たちが使っているゴング・クビャルになったはずである。そんなことは考えたってわかることだ。ピアノの歴史を考えてみれば、ある日突然に、コンサート用のスタインウエイのピアノがどこかの古めかしいコンサートホールに流星のごとく現れたわけではない。だからといって、その試行錯誤のプロセスをピアノのように明らかにするのは難しい。
 物として、文字として存在するピアノの歴史は、研究によって解き明かされていくが、ガムランの楽器は熔かされて作り直されるし、新しい鍵板を付け加えることだってある。鍵板が増えれば、台も新しくなり古いものは消えてなくなるからだ。ものが消えていくのと同時に人々からその記憶も消されていく。物の存在とその物の記憶は一心同体なのだ。物がある限り、記憶はさまざまな物語に作り変えられるにしても、それは「存在」し続ける。しかし物の消滅とともに、記憶の物語も闇の彼方へと消える。
 古い楽器にはたくさんの記憶の物語が存在する。そのどれが正しく、どれが誤っていると判断することはひじょうに難しいし、そんなことをすること自体が「誤っている」のかもしれない。私は彼らの物語を聞いて、そんな古い楽器から新しい楽器が誕生するまでの試行錯誤の過程を想像した物語を書きはじめる。学問的には「仮説」というのかもしれないが、仮説は実証しない限り、いつまでも「物語」である。
 研究は実証的であれねばならないと言う(言われている)。物語という仮説を楽しむのではなく、それをサイエンスとして実証しなくてはならない。しかし本当に研究は「物語を作る作業」ではないと言い切れるのか?ぼくにはいまだその自信がない。少なくても物語の書けない人間は実証とやらもできないに決まっている。(8月29日、デンパサールで記す)

街での一日の過ごし方

2009年09月19日 | バリ
 デンパサールで時間を過ごすとなると、私には、本を読む、パソコンに向かう、図書館・本屋・カセット屋に行くという限られた選択肢しかない。そう考えると、自分はなんて人間味に乏しく、つまらない人間なのだろうと思う。一人なので話し相手もいないし、もちろん食事やら洗濯はあるが、そんなことは24時間のうちのせいぜい1時間もあれば終わってしまう。観光ガイドのこなれたコピーに表現されているような「癒し」とか「極楽」とか、なんだかコミックに描かれる黄泉の国を表現したような「バリらしい観光生活」をしようなどという選択肢はこれっぽっちもない。
 今日は昼からインタヴューのために村に行くはずだったが、先方の都合で明日に延期になったため、ぽっかりと一日予定が開いてしまった。ということで、朝起きてまず向かったのだが総合大学の図書館。ちょうどセミナーが開かれていたため、参加者を当てこんだ本屋も廊下に出ていて、何冊か本を買ってその足で図書館へ。しかしインドネシアの小さな図書館は埃がひどく、3時間が限界。配架も滅茶苦茶で、この部屋に座っている図書館員が、まったく仕事をする気がないか、あるいは図書館員には向いていないのもかかわらずこの場所で仕事をしなくてはならなくなった不幸な身であろうかれらに心から同情する。
 続いていった場所はグラメディア書店。インドネシア全国に支店をもつ大型書店で品揃えもそこそこである。結局、立ち読み1時間半。わからない単語が出てくると、そのたびに辞書コーナーに移動。辞書を買うふりをして、読みたい本のところに辞書を持ってくるという選択肢が全く浮かばなかったわけではないが、さすがにそれは気がひけた。椅子がないのがつらいのだが、新刊を読むならば図書館よりずっと空気がきれいで、しかも冷房が入っている。気に入らないのは中途半端なコラボレーションをしたBGMだけ。ここでも数冊本を買って、本日の外出の予定は終了。帰宅して眠くなるまで買ってきた本の講読とメモ。全く後悔のない充実した街での一日だった。(8月28日、デンパサールで記す)


ペンデット騒動

2009年09月19日 | バリ
 バリ舞踊にペンデットという名前の踊りがある。もともとは寺院で神々にたいして上演する踊りだったのだが、観光化にともない来客を歓迎する踊りとして創作されたウエルカム・ダンスの一つ。この種の踊りの中では歴史が古いせいもあって、最近は新しく創作された舞踊におされて上演されることは少なくなったが、バリの人々にはよく知られている舞踊である。
 実はこの舞踊が、インドネシアとマレーシアの国家問題になってしまったのである。ことの起こりは、マレーシアの観光用の宣伝フィルムにこのペンデットが使われたことに始まる。どう考えてもマレーシアがバリの歓迎の舞踊を自分の国の宣伝に用いるというのは普通ではない。しかし実際にはそれが起きてしまったのである。
 まず怒ったのはバリ人である。なぜバリ文化がマレーシアに盗用されるのか?芸術大学ではペンデットが学長室のある本部前で踊られるデモが行われ、バリ・ポストでも、この問題が大きくとりあげられた。大統領までもがこの事態に対して発言をするなど問題は大きくなっていったのである。この宣伝ビデオを作成した会社はインドネシア政府に対して謝罪をしたが、インドネシアとしては、会社のせいにするマレーシア政府が気に入らないわけで、これまでの両国間の摩擦もあいまってか、国家問題に発展しそうな気配である。
 私が驚いたのは、このことでペンデットの歴史だとか、創作者の息子、識者たちが次々にこの舞踊について新聞やテレビを通して語りはじめたことで、バリ人が舞台でほとんど踊らなくなったものが、こんな形で日の目をみることがすこし滑稽だ。この問題をきっかけにペンデットが再びバリのあちこちで踊られるようになったら、面白いのであるが・・・。(8月27日、タバナンで記す)