Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

チョコレートに殺される?

2009年09月18日 | バリ
 ウブドの本屋に出かけたついでにカフェでお茶にする。といってもウブドにはほとんど行かないため新しい店は知らないので、ウブドのカフェの老舗であるカフェ・ワヤンに行ってみる。入口は小さいが奥に長くガゼボがたくさんあって、靴を脱いで足を延ばしてお茶を飲めるのが昔から気に入っている。
 せっかくきたのだから、紅茶とともにケーキでも食べようと、ケーキのショーケースを見てみるとチョコレートケーキがいろいろある。まあ、それほど味に期待はしていないが、やはりチョコレート好きにとっては心躍るものがある。その中でもひときわ目をひいたのが、Death by chocolateとタイトルがつけられたケーキ。見た目もチョコ一色である。この人目をひくタイトルからして、この店の看板ケーキの一つなのだろうし、たぶんウブドでも有名なケーキなのではないだろうか?まあ、それはともかく、「チョコレートに殺されてよろうじゃねえか。まあ、やれるもんなら、やってみな。」と高倉健風に心で呟いてから、これを注文することに決定。
 運ばれてきたケーキの写真がこれ。もうどきどきしながら、一口運んでみると、「うーん?」という難しい味。色は十分チョコレートしているのだが、バナナフレーバーやリキュールが入っていて、まわりのチョコはなんとなくざらざらしているし。しかし、きっとふつうの人なら、このチョコの毒気にやられちゃうんだろう。もちろん私はへっちゃらであったつもりだが、実のところ、夜中に胃がやけて胃薬を飲んだのだった。これは、このケーキのせいなのか、それとも夕食にたべたインスタント焼きそば2個分のせいなのか?(8月26日、デンパサールで記す)

お気に入りのお菓子

2009年09月18日 | バリ
 私の甘いもの好き、とくにチョコ好きはゼミの学生や友人たちにもよく知られている。まさにその通りなのだから仕方がない。ゼミにチョコを持ってきてくれるのは大歓迎だ。
 バリでも仕事の合間に食べるのはやっぱりチョコレート菓子である。今回のお気に入りは写真のお菓子、Gery chokolatosである。最近、バリから帰ってくる学生がよくこのお菓子をサークルに買ってきてくれ、すっかりハマってしまったのだ。なんといっても、スティック型の焼き菓子の中にチョコが「これでもか!」とたっぷりつまっていて、チョコを食べたと実感できるのである。ただし、美味しいチョコであるとはお世辞にも言えないので、「ぜひ食べましょう」なんて無責任なことは言わない。
 このお菓子には難点が一つ。一本ずつ包装されているのはいいが、この包装がとにかく開けにくい上、開けてもお菓子が取り出しにくいときている。引っ張り出そうとすると、お菓子の焼き菓子部分が粉々になり、見るも無残な姿になる。だから慎重に、慎重にぼくはこのお菓子を取りだすんだよ。骨董品の鶴首の壺を古びた木製の箱から、息を止めて、大事に大事に取り出すみたいに。(8月25日、デンパサールで記す)

変わった行列

2009年09月17日 | バリ
 バリでは頻繁に儀礼の行列に出くわす。ふだん混雑しない道路が渋滞しているならば、儀礼の行列を疑って間違いはない。行列が長ければ、待つこと10分、15分は当たり前で、こうなると車もお手上げで、儀礼であるために、インドネシア人お得意のクラクションもならすことができず、特にバイク乗りは、わずかな日陰を求めて行列が去るのを静かに待つのみである。
 さて昨日もこうした行列に出会ったのだが、これが「摩訶不思議」な行列なのである。まず聞こえてくる音楽が、バリのガムラン(ブレガンジュル)に加え、中国の銅鑼、さらにはインドのムリダンガムやハルモニウムなどなど。なんだか世界各国の仮装行列のようなものが突然現れたのだ。とんでもなく珍しい行列で出くわしたことから、私はバイクを側道にとめて見学することにした。
 行列はWorld Hindu Youth Organizationの行列で、想像するにこの組織の大会がバリであったらしい。世界各国のヒンドゥーの人々がさまざまな服を着て、暑い最中のバリを行列しているのである。もちろんバリの子どもたちも大勢参加している。先頭は中国の獅子舞。その銅鑼の音がすさまじい。スハルト時代では中国の芸能が街中を行列するなんて考えられなかったことである。極めつけはやはりインドの楽器と歌。かつてゼミの学生が研究していたサイババ賛歌を思い出してしまった。私の隣で煙草をふかしながらこの行列を見ていた男性は私に、この団体の信仰を「これは、シワ・ブッダだね」と一言で評していた。持っている絵や像はすべてガネーシャであり、ヒンドゥーの中のガネーシャ信仰なんだろうか?よくわからないが、バリの若者たちの一部が、インドのヒンドゥーに接近していることはこうした行列からもよくわかる。(8月24日、デンパサールで記す)


女性とガムラン

2009年09月17日 | バリ
 私が勉強していた80年代には村の子どもたちが、男女の区別なくこうしてガムランを演奏するなんていうことは全くありえなかった。中学生、高校生のグループはできつつあったが、村で演奏するのは例がなく男性だったし、小学生の女の子がガムランのばちを握るなんてことは考えられなかった。性差は明確に、芸能上の役割を規定した。
 この20数年で大きく変わったのが、芸能を担う人々の性差と世代である。ジェンダー論がインドネシアにも普及し、一部の教育機関や、政府の政策下の育成だけではなく、村の中でも自然にこうしたとりくみが行われるようになったのは注目に値する。政策はさまざまな手法により中央から地方の末端まで普及していったと考えても過言ではない。
 タバナンの街で小規模ながら毎年行われているフェスティバルの今年のテーマの一つは、参加する各村落が女性のガムランチームを結成し、3曲以上の作品を演奏することなのだそうだ。これに向かって多くの村は男性の演奏者の協力のもと練習が進んでいるらしい。
 女性のガムランのフェスティバルなどはもう何年も前からバリ芸術祭で行われていた。しかし実際はこうしたガムランを演奏していたグループはまだ少数派だった。しかし、ここにきて、地方の中でもこうした取り組みが進みはじめていることを実感する。地方からの底上げといってもいいだろう。写真のように子どものころからガムランに親しむ女の子があらわれているのだ。あと何年かすると、今以上にとんでもなく上手な女性のガムラン演奏グループがつくられ、男性のグループの対抗戦を行うようになるかもしれない。しかしバリの人々の本音の部分には、「どうせ女性のガムラン」という部分がなきにしもあらずではなかろうか。その証拠に、まだ一本も女性のグループの演奏はカセットになって発売されていないのである。(8月24日、タバナンで記す)


バイクの駐車料金

2009年09月16日 | バリ
 バイクの駐車料金がこの数か月の間に多くの場所で倍額にあがった(公共市場はまだ据え置きだが)。たぶん車の駐車代も同様に上がっているのだろう。それにしても倍額というのがいかにもインドネシアらしい。額として500ルピアから1,000ルピア、日本円で考えれば、今のレートだと5円から10円になった程度であるが、インドネシアに住めば日本円で現地価格を考えてしまうのは正しくない。30円あればコンビニで安い菓子パンが一つ購入できるのだから。
 このバイクの駐車代だが、街ではほとんどバイクを止めた場所で徴収される。高級なショッピングセンター以外は時間制ではないので、5分でも半日でも同額である。ショッピングセンターの駐車場は当然ながら、商店街などがある表通りでは、駐車をすればどこからともなく駐車係のおじさんが現れ、お金を徴収される。そのときにはピンク色の領収書を渡されるのであるが、そんなものをもらっても捨てるだけなので、「それ、いらない」といえば、このお金は駐車場係のものになる(のかもしれない)。領収書を出していないということは、払っていないということになるわけだから。昔はそういうことが許せなくて必ず要求していたが、今は少し大人になった。
 とんでもない駐車係だと思うかもしれないが、私はこの駐車係のおじさんたちに二度、助けられたことがある。最初は鍵をつけっぱなしにしたときで、おじさんはプロなので、そういうバイクの鍵を目ざとく見つけ、ちゃんと保管してくれる。バイクのところに私が戻って、「鍵がない!」と半パニック状態で大慌てをしていると、おじさんが(たぶんそんな状況をしばらく観察した後)、静かに近寄ってきて、ニヤリと微笑んで鍵を渡してくれた。もちろんお礼はしたが、「いくら出せ」なんて余計なことは一言もいわなかった。二回目は鍵を落としたとき。おじさんたち数人で鍵を探してくれ、結局は別の所に落として見つかったのだが、あのときのおじさんたちの協力的な態度は今なお記憶に残る。見つかったとき、「鍵をなくしたら、バイクを盗まれてしまうのだがら、しっかり保管しろ」とこっぴどく説教された。
 ということで、私は駐車代が500ルピアから倍額の1,000ルピアになっても、駐車しているバイクにある程度の責任を持ってくれている(と私は信じている)おじさんたちには感謝しているので、高いなんていわずに必要経費だと思って、黙って支払うことにしているのである。(8月23日、デンパサールで記す)

パーン!

2009年09月16日 | バリ
 デンパサールの街中をバイクで走っているとすぐ前の車から突然、ものすごい炸裂音がした。その瞬間、私は驚き、バイクに乗り慣れているはずの私でさえも、ハンドルがぐらついてバランスをとるのが精いっぱいになった。全速力で直線を走っていた自転車の前輪が突然パンクしたことにより、左右に揺れるハンドルをしっかり握りしめ、前かがみになって自転車が地面に垂直になって走っていられるよう維持しているようなそんな姿である。実は、前を走る車の後輪の一つが一瞬にしてパンクしたのである。「パーン!」。車はスピードを急激に緩めるし、こちらも追突しないように回避。サーキットのレーサーのようで、今考えてみればなかなかスリリングな瞬間だった。そのときは、そんな悠長なことをこれっぽっちも考えなかったけれど。
 日本でバイクに乗って25年。このような経験は初めてである。日本の車のタイヤは、道路を走っていてこんなに突然パンクするものなのかな?高速走行していたらいったいどうなっていたのだろう?そんなことを考えるだけでも背筋に寒気が走る。
 ところで、この音が鳴った瞬間、私はとっさにタイヤのパンクの音ではなく、それが鉄砲の発射音に聞こえてしまったのだった。「バーン!」
「あの車からおれを狙っている奴がいる。」
すべては一昨日、飛行機の中でみたパリで誘拐犯を追いかける映画――昨日のことなのに映画のタイトルすら忘れてしまった――の影響である。そこまでバリは物騒な場所ではないのだけれど、なんだか二枚目でダンディーな主人公の気分……。(8月23日、デンパサールで記す)


ホテル

2009年09月15日 | バリ
 最初に泊まったホテルは、デンパサール市内のインドネシア人向けのホテルで、伝統芸能を勉強に来る日本人もよく利用するところだが、観光ガイドには出ていない。水が新鮮に循環する金魚の池はあるのだが、人間用のスイミングプールはついていない。朝食にはアメリカン・ブレックファストもコンチネンタル・ブレックファスト(たぶん従業員はそんな言葉を知らないと思うけど)もないが、ほんのちょっぴりのナシ・ゴレンとミーゴレン、パンとゆで卵のどれかを選択することができる。もちろん決して居心地が悪いわけでも不衛生なわけでもない。外国人の観光客が泊まるホテルとの違いは、従業員が決して不必要に、しかも不気味な微笑みを浮かべながら英語で「おはよう」とか「こんにちは」とはいわないこと。ほとんど無視したように、あるいはちょっと目が合うと、少し眉を上へ動かして「言葉」ではなく「目」で挨拶をする程度である。
 もう一つは、ここは決して静かではないということだ。もちろんそれは部屋から道路までの距離に比例するわけだが。写真は、このホテルでもっとも安い私の部屋からの眺め。もう10メートル先はバイクと車が往来する目抜き通りで、これを書いている間も、車の騒音だけでなく、儀礼に向かうガムラン隊の行列――これはたまにトラックの上でも行われる――の楽隊の金属音なんていうのも聞こえてくる。観光ガイドに掲載されているイメージの癒しのバリを求めてやってきたふつうの観光客(何がふつうなのかはぼくにもよくわからないのだが)には、たぶん耐えがたい状況である。
 しかし不思議なもので、私は従業員の一見、ひややかに見える態度(実は、無視しているようで、フィールドワーカーが観察するかのごとくチェックされているのであるが)は、こちらも余計な気を使わなくていいためにありがたいし、騒音もバリの音風景としてインプットされてしまっているから、逆に、静寂なヴィラの一室に一人とり残されて右往左往してしまうより格段に落ち着くものだ。別にそれで癒されている――特別、今、癒される必要な私はどこにも存在していないのだから――とは思っていないし、そんなことも望んではいない。しかし、もしそれが「癒し」であるとすれば、その条件は人によって千差万別だということだ。ぼくは、自分の目がチカチカするような原色の花を浮かべたフラワーバスにつかり、何らかの自然から抽出されたと語られる液体を背中にすりこまれ、マッサージをされている風景を想像しただけでも、もう極度のストレスに陥り、いち早くそんな幻影を消去しようとクリアーボタンを押し続けることになる。(8月22日、デンパサールにて記す)


香りの記憶

2009年09月15日 | バリ
 飛行機のアナウンスがデンパサール着陸まであと1時間ほどであることを告げた。機内のスクリーンに映し出された地図には、飛行機がスラウェシ島を過ぎて、バリ島へとまっすぐ南へと向かっていることを示している。正直言うと、かつて一年に一度、アルバイトで蓄えた資金でバリに行っていた頃とは比べものにならないくらい私は「冷めて」しまっている。あのときの感動のようなものが、今はものすっかり無くなってしまった。バリに来られるのは嬉しいのだが、ここでは、学術発表や論文という目に見える形で結実させるための調査という仕事が待っている。
 私はアナウンスを聞いて大きく深呼吸をした。インフルエンザの恐怖からか、6時間近くもの間、機内での自分の呼吸が心なしか浅かったことに気づかされる。と、その時である。デンパサールの空港に着いた瞬間から香るあの独特のインドネシアの丁子タバコの香りの記憶が私によみがえり、まさにその香りを第三の嗅覚で感じたのだ。驚いたことに、それは一瞬の出来事ではなく、その後も長く持続している・・・。そんなはずはない。機内は禁煙だし、アナウンスがあった前と後とを比べても、飛行機の中はそれまでと何もかわらない。前の子どもは眠さのせいか、ごね続けているし、客室乗務員は忙しく、機内通路を大きな働き蟻のように前後に行き来しているだけだ。
 これが香りの記憶。その場に香りが存在しなくても記憶が嗅覚を刺激して、私に1時間後に漂うであろう香りを感じさせてくれているのだ。人間の体というのはなんて驚くべき機能を持ち合わせているのだろうと驚愕してしまう。
 そんな体験をしたからだろうか、突然、私はバリ到着が待ち遠しくなってしまった。そして香りの記憶がそのまま持続し、現実の香りにそのままバトンタッチできるように必至にインドネシアの記憶の香りを消すまいと、降下する飛行機の中で静かに目をつむった。(8月22日、デンパサールにて記す)

待つわ

2009年09月14日 | バリ
 昔々、あみんというグループに《待つわ》なんて曲があったが、「あー、あれね」なんて思う読み手はそれなりに人生を経験しているか、相当な人生経験の持ち主のどちらかである(回りくどい言い方によって、結果的には書き手の意図が伝わらないという典型的な文例)。「わたし待つわ。いつまでも待つわ……」というサビび部分の旋律がなかなか印象深い作品だった。
 バリの空港について、長い列に並んでやっとチェックインが終わるというときに、「あなたの飛行機の出発は3時50分になりました」とにこやかに告げられた。「大丈夫、関空から那覇への乗継の便はちゃんと確保してあります」と続けて事務的に説明される。「No problem」。まあ、カウンターの人間にとってはそんなものだろう。操縦しているのは自分じゃないし、航空会社の人間でもない。彼女なりにしっかり事務的に対応しているだけである。(少なくても事実は十分に伝わっている)
 しかしである。搭乗する方にしたらたまったものではない。真面目に搭乗2時間前に空港に到着したぼくは、これから5時間も何をしていればいいんだい?しかし文句を言ったところで何かが変わるわけじゃない。台風の日のカウンターで怒鳴ってるおじさんの気持ちもちょっとはわかるが、だからといって飛行機は宇宙戦艦ヤマトみたいに空間をワープしたりはしないんだ。だから黙って「待つわ」ね。「飛行機くるまでいつまでも待つわ」(9月14日深夜、バリの空港で)

帰国しました

2009年09月14日 | 
 デンパサールに到着する使用機材到着遅れのため、3時間遅れて関西空港に到着した。飛行機が3時間くらい遅れるというのは、あり得ない話ではないが、夜中の0時50分発が3時間遅れるとほとんど4時ということになり、これでもかとサービス過剰で冷房をきかせた空港で、免税店はすべて閉まり、なんだか事件に巻き込まれて閉店後のデパートに閉じ込められてしまった民衆の一人のようになって、ただひと所から身動きもせずに、修行僧のような時を過ごした(たぶん修行僧とはそんなものなのだろうという想像にもとづいているにすぎないのだが)。寝てはいけない!これは瞑想なんだと言い聞かせながら。しかしそんなときは決まって、つじつまのまったく合わない短編の夢の中をただ迷走した。夢の隙間に陸上競技で使うようなハードルがあって、そのたびごとに我に返るって感じ。
 機内で寝るモードになっているために、結局、ぜんぜん読まなかった村上春樹の小説もトランクの中。どうして「もし」という状況を設定しなかったんだろうと後悔する(後悔とはそんなものなんだろう。)
 関西空港でも、3時間、国内便を待ち続ける(そして今、その最中にいる)。すでに何らかの回路がプッツンしてしまい、ぼくは普段、決して食べないハンバーガーをマックに入って食べ、アイスコーヒーをのみ、シャカシャカチキンなる擬態語と鶏肉がミックスした不思議なネーミングの食べ物を注文した。注文しながら、なんでこんなものを注文しているのか、自分でもよくわからなかった。とにかく眠らなくてはならない。また起きたときにいろいろ考えてみることにする。とにかくぼくは元気に戻った。それが書きたかっただけ。