大相撲が、自分でまいた種で責任を取れないでいる。大相撲が国技と言われても、「国技」
という言葉にほとんどの国民(ちょっと大げさか)が、どれほどの関心も執着もないはずだ。
歴史的に数百年の伝統があって、どこかの地方の神社かに相撲発祥の軌跡があるという話
は聞いたことがあり、出典、出所(でどこ)から国技と認められているのか。
国技の定義も聞いたことはないし、大相撲のテレビ中継を見る限りでは国技にふさわしい
セレモニーは、せいぜい首相の優勝杯の進呈に見られる程度で、表立ったものはない。
相撲後継者不足の対策として、日本相撲協会が外国人に門戸を開いて、その「成果」があ
って、現在は横綱、大関はじめ上位のほとんどが外国人力士で占められている。
理由はともあれ、外国人力士に門戸を開いた時点で、大相撲は国技とかなんとかではなく、
グローバルなプロスポーツとして組織、基盤から方向転換をしておくべきものだった。
柔道競技も、ひと足早く同じ道をたどって、今やオリンピック競技として中心核はヨーロッパ
に移り、ルール改正やら様式変更まで欧州スタイルで進められている。
それぞれの国柄、柔道スタイルがフレキシブル(flexibility)に認知されて、多彩なスポーツ・
イズム(ism)を構成している。
大相撲は、入口(受け入れ)も出口(ヒエラルヒー:hierarchie)も、いうなら考え方、社会の
関心もみんな中途半端で、問題は分析も解決もされずに、当然累積していつかはその枠か
ら噴出してきた。
日本相撲協会が、自らまいた種、自業自得の世界なのに、変に古い権威主義だけは都合よ
く温存されて、個人(力士)にだけに責任転嫁する無責任体質が明瞭だ。
モンゴル出身の横綱のひとりのマナー(manners)がいつも問題視されても、どうということ
はない対応だから、当人もいっこうに気にもかけないのだろう。
プロスポーツとしては、それぐらいのマナー、素行はかえって存在感があって、宣伝効果
も大きいので、特異なアイディンティティ(identity)はある。
そもそも、騒がせ力士は大草原の遊牧民族がルーツ(roots)なので、その程度の態度に
不自然を感じていないのだろう。
ことは、高度に鍛えた身体能力を使った暴力、傷害事件(言われているような)となると、全
然、別問題となる。
プロスポーツ人の高い身体能力というのは、向けられる行為によっては「凶器」になると
いうのが社会通念だ。もうひとつ、高度に鍛えてほしいのは、適応「脳力」だった。
自らの不法行為については、法的、社会的責任を誰もが当然に、公平に果たさなければ
ならない。
日本相撲協会が自ら開いてきた改革のルートから見れば、横綱だからといって、上記のよ
うな社会責任と同じく、相撲社会(道)としての責任を別途取らなければすまないというこ
とにはならない。
今の大相撲社会内での「責任」は、自らまいた種、同協会にも等しく十分にあるからだ。
プロスポーツとしての大相撲改革として、中途半端でない見識、体制づくりが求められる。
2月1日に同協会理事選挙が近年になかった投票によって行われて、貴乃花が30代で
初めて理事に選出された。
自らまいた種の世間騒がせに手を打てない、自業自得社会の大相撲(日本相撲協会)、
変わることが求められている。
という言葉にほとんどの国民(ちょっと大げさか)が、どれほどの関心も執着もないはずだ。
歴史的に数百年の伝統があって、どこかの地方の神社かに相撲発祥の軌跡があるという話
は聞いたことがあり、出典、出所(でどこ)から国技と認められているのか。
国技の定義も聞いたことはないし、大相撲のテレビ中継を見る限りでは国技にふさわしい
セレモニーは、せいぜい首相の優勝杯の進呈に見られる程度で、表立ったものはない。
相撲後継者不足の対策として、日本相撲協会が外国人に門戸を開いて、その「成果」があ
って、現在は横綱、大関はじめ上位のほとんどが外国人力士で占められている。
理由はともあれ、外国人力士に門戸を開いた時点で、大相撲は国技とかなんとかではなく、
グローバルなプロスポーツとして組織、基盤から方向転換をしておくべきものだった。
柔道競技も、ひと足早く同じ道をたどって、今やオリンピック競技として中心核はヨーロッパ
に移り、ルール改正やら様式変更まで欧州スタイルで進められている。
それぞれの国柄、柔道スタイルがフレキシブル(flexibility)に認知されて、多彩なスポーツ・
イズム(ism)を構成している。
大相撲は、入口(受け入れ)も出口(ヒエラルヒー:hierarchie)も、いうなら考え方、社会の
関心もみんな中途半端で、問題は分析も解決もされずに、当然累積していつかはその枠か
ら噴出してきた。
日本相撲協会が、自らまいた種、自業自得の世界なのに、変に古い権威主義だけは都合よ
く温存されて、個人(力士)にだけに責任転嫁する無責任体質が明瞭だ。
モンゴル出身の横綱のひとりのマナー(manners)がいつも問題視されても、どうということ
はない対応だから、当人もいっこうに気にもかけないのだろう。
プロスポーツとしては、それぐらいのマナー、素行はかえって存在感があって、宣伝効果
も大きいので、特異なアイディンティティ(identity)はある。
そもそも、騒がせ力士は大草原の遊牧民族がルーツ(roots)なので、その程度の態度に
不自然を感じていないのだろう。
ことは、高度に鍛えた身体能力を使った暴力、傷害事件(言われているような)となると、全
然、別問題となる。
プロスポーツ人の高い身体能力というのは、向けられる行為によっては「凶器」になると
いうのが社会通念だ。もうひとつ、高度に鍛えてほしいのは、適応「脳力」だった。
自らの不法行為については、法的、社会的責任を誰もが当然に、公平に果たさなければ
ならない。
日本相撲協会が自ら開いてきた改革のルートから見れば、横綱だからといって、上記のよ
うな社会責任と同じく、相撲社会(道)としての責任を別途取らなければすまないというこ
とにはならない。
今の大相撲社会内での「責任」は、自らまいた種、同協会にも等しく十分にあるからだ。
プロスポーツとしての大相撲改革として、中途半端でない見識、体制づくりが求められる。
2月1日に同協会理事選挙が近年になかった投票によって行われて、貴乃花が30代で
初めて理事に選出された。
自らまいた種の世間騒がせに手を打てない、自業自得社会の大相撲(日本相撲協会)、
変わることが求められている。