いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

外国人力士。改革。  revolution , oozumou

2010-02-01 19:42:43 | 日記
 大相撲が、自分でまいた種で責任を取れないでいる。大相撲が国技と言われても、「国技」
という言葉にほとんどの国民(ちょっと大げさか)が、どれほどの関心も執着もないはずだ。
 歴史的に数百年の伝統があって、どこかの地方の神社かに相撲発祥の軌跡があるという話
は聞いたことがあり、出典、出所(でどこ)から国技と認められているのか。

 国技の定義も聞いたことはないし、大相撲のテレビ中継を見る限りでは国技にふさわしい
セレモニーは、せいぜい首相の優勝杯の進呈に見られる程度で、表立ったものはない。
 相撲後継者不足の対策として、日本相撲協会が外国人に門戸を開いて、その「成果」があ
って、現在は横綱、大関はじめ上位のほとんどが外国人力士で占められている。

 理由はともあれ、外国人力士に門戸を開いた時点で、大相撲は国技とかなんとかではなく、
グローバルなプロスポーツとして組織、基盤から方向転換をしておくべきものだった。
 柔道競技も、ひと足早く同じ道をたどって、今やオリンピック競技として中心核はヨーロッパ
に移り、ルール改正やら様式変更まで欧州スタイルで進められている。
 それぞれの国柄、柔道スタイルがフレキシブル(flexibility)に認知されて、多彩なスポーツ・
イズム(ism)を構成している。

 大相撲は、入口(受け入れ)も出口(ヒエラルヒー:hierarchie)も、いうなら考え方、社会の
関心もみんな中途半端で、問題は分析も解決もされずに、当然累積していつかはその枠か
ら噴出してきた。
 日本相撲協会が、自らまいた種、自業自得の世界なのに、変に古い権威主義だけは都合よ
く温存されて、個人(力士)にだけに責任転嫁する無責任体質が明瞭だ。

 モンゴル出身の横綱のひとりのマナー(manners)がいつも問題視されても、どうということ
はない対応だから、当人もいっこうに気にもかけないのだろう。
 プロスポーツとしては、それぐらいのマナー、素行はかえって存在感があって、宣伝効果
も大きいので、特異なアイディンティティ(identity)はある。

 そもそも、騒がせ力士は大草原の遊牧民族がルーツ(roots)なので、その程度の態度に
不自然を感じていないのだろう。
 ことは、高度に鍛えた身体能力を使った暴力、傷害事件(言われているような)となると、全
然、別問題となる。

 プロスポーツ人の高い身体能力というのは、向けられる行為によっては「凶器」になると
いうのが社会通念だ。もうひとつ、高度に鍛えてほしいのは、適応「脳力」だった。
 自らの不法行為については、法的、社会的責任を誰もが当然に、公平に果たさなければ
ならない。

 日本相撲協会が自ら開いてきた改革のルートから見れば、横綱だからといって、上記のよ
うな社会責任と同じく、相撲社会(道)としての責任を別途取らなければすまないというこ
とにはならない。
 今の大相撲社会内での「責任」は、自らまいた種、同協会にも等しく十分にあるからだ。

 プロスポーツとしての大相撲改革として、中途半端でない見識、体制づくりが求められる。
 2月1日に同協会理事選挙が近年になかった投票によって行われて、貴乃花が30代で
初めて理事に選出された。

 自らまいた種の世間騒がせに手を打てない、自業自得社会の大相撲(日本相撲協会)、
変わることが求められている。


 

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