いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

男女雇用機会均等法25年。 employment law of equal opportunity

2011-12-28 19:55:36 | 日記
 (1)この世の中には人間としては「女性」と「男性」しかいないのだから、それぞれの「特性(peculiarity)」を活かして共働していくしかないのが普遍的な理念だ。
 86年に男女雇用機会均等法(employment law of equal opportunity)が施行されて25年になる。雇用条件、昇進に男女平等を制度化したものだ。

 儒教思想に根付いた(と思われる)封建社会と言われた戦前、戦後の間は、家事、育児は母性本能の高い女性が担っていたので外での労働は相対的に比較身体能力の強い男性が担って、それなりに「特性」を活かした分業制、分配論が確立していた。
 これを直ちに男性優位、女性軽視の社会制度、理念と呼んでいいものか、それぞれに高い潜在能力に裏打ちされた合理的な価値配分の仕組みでもあった。

 明治、大正、戦前には文学、芸術分野での女性の社会的活躍も目に付き、遠く遡(さかのぼ)れば平安時代にも紫式部、清少納言などすぐれた女性文学者がいたように、女性軽視の歴史はそもそも日本社会にはなかったと言える。

 (2)戦後に教育方針が大きく変わって、戦禍からの復興を目指す中で「生活向上」が社会テーゼ(these)となって経済成長、発展の促進とともに「生き方」にも関心が高まり多様性を求める社会機運が高まってきた。「特性」を活かした共働性、分業性から最大公約数としての男性中心社会であった。

 労働社会にも欧米同列化、経済成長の社会進化による労働機会の増幅にともなって、家庭の枠から飛び出して労働社会で生きる女性の「生き方」もあたらしい社会のステータス(status)としての勢力を持つようになってきた。

 (3)この世の中、女性と男性しかいないのだから、まして戦禍を経験して男性よりも人口比率の高い女性のスタンスが比較重要性を増してくるのは必然的なことだった。
 経済成長とともに労働環境は身体能力優位の第1,2次産業からサービス産業の第3次産業化にシフトして、女性の社会進出の条件は整備された中での取って付けたような雇用機会均等法だった。

 自由闊達な民間の社会経済行動、活動を規律制約するのは、「法律」などではなくて価値観、必然性、自己評価からくる社会が求める生活環境整備だからだ。雇用条件等に男女平等を謳(うた)ってもそれを判断基準に採用する方法、公平性、公正性にまで立ち入って拘束することなど出来ない、自由な社会経済行動、活動でもある。

 男女雇用機会均等法はだからちょっと浮世離れした形骸化の法律だ。雇用機会均等法は、男女にかかわらずに社会が必然的に求めれば(進化すればそうなる)ごく当たり前のパラダイム(paradigm)だ。女性と男性しかいない人間社会だからだ。

 (4)女性はその「特性」の一部から体内で子どもの成育期間を担う生理学的負担を担い、また分業性の比較多かった家事、育児と社会労働との両立問題もあって、雇用機会均等法が施行されても労働時間の「継続性」に問題はあった。企業からすれば経済効率性の低い労働形態と言える。

 しかし、男性よりも人口比率の高い女性の労働力は貴重な社会資本(social capital)だ。近年はようやくにして男性であれ女性であれ、家庭、家事、育児をそれぞれの事情、都合で分担する社会環境、制度化も生まれてきて、そのあたらしい社会構図、効果の検証が必要だ。

 日本古来、伝統の儒教思想からすれば、男性の女性化、女性の男性化とでも言うべきなのか、それも近代化社会が求めるパラダイムのひとつだ。
 ただし、現在の社会情勢から「生活」に見合った収入から、「収入」に見合った生活への価値判断のシフトも重要だ。

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