いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

生きて真実を語ること。 to talk the truth as their lives

2018-07-30 20:09:19 | 日記
 (1)裁判というものは、容疑者の証言から事件の背景、動機、犯罪性、事件性をあきらかにしてその責任を明確にすることによって社会正義のパラダイム(paradigm)を維持、確立するものだが、裁判で何も語らずに証言を無視することがあればその効力は失われる。

 オウム・サリン事件は13人の死刑囚の死刑執行でひとつの区切りを迎えたが、首謀者とみられる松本智津夫死刑囚が裁判を通じてほとんど事件核心を語らずに、世評のほとんどはオウム事件は終わっていないとの論評だ。

 (2)事件性、犯罪性はあきらかになったとしても、その背景、動機、意図は未解明のままだ。同死刑囚の中には生きて事件について証言して罪を償う考えも示したとも伝えられているが、死刑廃止論を支持する立場からはそういうことでもあり、事件性、犯罪性だけでなく時間をかけてでも事件の背景、動機、意図があきらかになれば犯罪抑止の社会的利益は大きいことになる。

 ただその時間はこれまでも十分にあったわけだから、踏ん切りをつけるのがあまりにも遅かったというべきか。

 (3)ただ生涯を通して心を開いていく中で事件の真実を証言できることはあり、そのことによって被害者、家族にとってもなぜそうなったのか、被害者になったのかの闇に光をあてることができて、心の深い黒い霧が晴れる効果、期待はあるはずだ。

 今回のような裁判を通して事件の首謀者が何も語らずに、他の死刑囚も首謀者にすべての責任を向けて従っただけだとの証言の中で、仮に生きて事件の全容証言をしたところで首謀者が何も語らない中でどこまで事件の真実解明とみなしていいのか問題はある。

 (4)事件は終わっていない評論の中心は、なぜ事件は起きて、二度とこのような通勤途中の多くの国民が犠牲になる無差別犠牲事件をくりかえしてはならないという本旨であるので、そういう意味からも事件関係者が生きて時間をかけてでも証言をしていくことは意味のあることだ。

 今回7月中に二度にわけて立て続けにオウム・サリン事件死刑囚13人の死刑が執行されたことを前例にない異常なことと報じているが、そもそもオウム・サリン事件は発生から異常性続きであり、ことさらに最後が異常だと強調されるものでもない。

 (5)日本の刑法は報復主義をとらないので、そこからの死刑制度廃止論支持でもあるが、だから死刑執行で事件が終わるということがないものだ。
 7月中に13人のオウム・サリン事件死刑囚が死刑執行されたあらたな事件性課題も含めて事件の背景、動機、意図について解明、究明する歴史的な作業は続けていかなければならない国民全体の意味はある。

 (6)直近の世論調査では59%が世界で数少ない死刑制度を続けてよいと支持している。

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