(1)萩生田文科相の身の丈「トンだ、トンだ」(本ブログ注)発言で大学入試共通テスト英語民間試験導入が延期されたことは、大学が入試評価に加えないところも出て同制度が公平、平等、公正に問題のあったことからも、結果としていい決断に迫られたことになった。
今回は政府、文科省の大学共通テスト問題であったが、大学では以前から教員から入試問題に時間と労力がさかれて研究に支障があるとの声もあって、入試問題の民間委託の話もあった。
(2)大学入試ぐらいは大学独自の責任で入試問題を作成して入るべき学生評価をすべきものだが、確かに年間を通して時間と労力を費やす入試問題作成ではある。
政府、文科省の英語民間試験導入は審議経過が非公開とされて意図、意味、意義はわからないが、萩生田文科相の問題発言を受けてこれまでの検討会議での議事が公表されることになった。
どういう形式で公表されるのか、まさか肝心のところは「黒塗り」では身の丈、身の程知らずということになる。
(3)結局は日本の大学の教育姿勢、環境、活用、必要、意義をどう位置づけるかがはっきりしていないことが問題だ。大学を入る(入学)のはむずかしく出る(卒業)のはやさしい(卒業認定資格)とするのか、入るのはやさしく出るのはむずかしいとするのか、入るのも出るのもむずかしいとするのか、入るのも出るのもやさしいとするのか理念、方針、姿勢が明確になっていない。
日本の大学はこれまで一般的に入るのは難しく出るのはやさしいといわれている。
(4)教育で学んだことは社会では役に立たないといわれることがあるが、もちろんそういうことはなく大学での高等教育、研究授業は人間の成長、知的財産、思考、判断、応用で有益なものであり、高校の授業の延長のような一般教育課程も重視するより知的興味、未知関心を高める専門教育課程の充実がより求められる大学教育だ。
あまり授業評価にこだわるのではなく自由、創造、闊達、多様性(diversity)のなかで思考力、判断力、比較力、知的能力、応用力を開発、開拓することは人間成長には貴重で重要なカテゴリー(category)であり、大学教育の知的な財産である。
(5)そういう意味では大学は入るのはむずかしくなく出るのもむずかしくないことが優先されて、ただし大学教育の一定の質、レベルを確保し維持する仕組み、工夫、制度設計は必要だ。教員の質確保による質疑応答、討論、対論、主張発表の授業形式は有意義だ。
大学生が本を読まなくなった時代だが、授業では古典から現代ものまで多様に多読する授業であるべきだ。本を読むために大学に入るというのも教育の原点であり、いいのではないのか。
今回は政府、文科省の大学共通テスト問題であったが、大学では以前から教員から入試問題に時間と労力がさかれて研究に支障があるとの声もあって、入試問題の民間委託の話もあった。
(2)大学入試ぐらいは大学独自の責任で入試問題を作成して入るべき学生評価をすべきものだが、確かに年間を通して時間と労力を費やす入試問題作成ではある。
政府、文科省の英語民間試験導入は審議経過が非公開とされて意図、意味、意義はわからないが、萩生田文科相の問題発言を受けてこれまでの検討会議での議事が公表されることになった。
どういう形式で公表されるのか、まさか肝心のところは「黒塗り」では身の丈、身の程知らずということになる。
(3)結局は日本の大学の教育姿勢、環境、活用、必要、意義をどう位置づけるかがはっきりしていないことが問題だ。大学を入る(入学)のはむずかしく出る(卒業)のはやさしい(卒業認定資格)とするのか、入るのはやさしく出るのはむずかしいとするのか、入るのも出るのもむずかしいとするのか、入るのも出るのもやさしいとするのか理念、方針、姿勢が明確になっていない。
日本の大学はこれまで一般的に入るのは難しく出るのはやさしいといわれている。
(4)教育で学んだことは社会では役に立たないといわれることがあるが、もちろんそういうことはなく大学での高等教育、研究授業は人間の成長、知的財産、思考、判断、応用で有益なものであり、高校の授業の延長のような一般教育課程も重視するより知的興味、未知関心を高める専門教育課程の充実がより求められる大学教育だ。
あまり授業評価にこだわるのではなく自由、創造、闊達、多様性(diversity)のなかで思考力、判断力、比較力、知的能力、応用力を開発、開拓することは人間成長には貴重で重要なカテゴリー(category)であり、大学教育の知的な財産である。
(5)そういう意味では大学は入るのはむずかしくなく出るのもむずかしくないことが優先されて、ただし大学教育の一定の質、レベルを確保し維持する仕組み、工夫、制度設計は必要だ。教員の質確保による質疑応答、討論、対論、主張発表の授業形式は有意義だ。
大学生が本を読まなくなった時代だが、授業では古典から現代ものまで多様に多読する授業であるべきだ。本を読むために大学に入るというのも教育の原点であり、いいのではないのか。