いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

文化の貧困。 indigence of the culture

2021-07-21 20:10:50 | 日記
 (1)前々回ロンドン大会の五輪開会式ではP.マッカートニーさんが「hey jude」をピアノソロで歌い、印象、インパクト、感動を世界に発信した。今回の東京五輪ではコーネリアスで活動したミュージシャン小山田圭吾さんが開会式でのオープニング映像に流れる音楽を担当することになっていたが、過去の自身による障害者への「いじめ」告白を掲載したインタビュー記事が問題視されて責任をとることで開催3日前にして突然の音楽担当を辞任することになった。

 (2)2020年東京五輪は大会公式エンブレム盗作疑惑から始まってJOC竹田会長、組織委森会長の辞任などゴタゴタ問題続きで開催間際の音楽担当者の問題辞任で、麻生副総理はこれまで何十年ごとの周期の五輪開催が受難続きで2020年東京五輪も周期的にそれに合わさることから「呪われた」五輪と言ったが、五輪が「呪われ」ているのではなく訳もなく人間、世界の文化の貧困(indigence of the culture)、ぜい弱さをあらわしているだけのことでしかない。

 (3)社会問題を引き起こしたミュージシャンの楽曲などを次々と使用しない社会風潮に対して、制作した本人人格とつくり出された楽曲、作品とは別人格との主張から使用を取り消すスポンサー、番組の姿勢に異を唱える意見もみられる。

 それはそれで理論構成上は理解できるが、そういう制作者の作品を使用するかどうかは当該利益者の判断の問題で別問題であり、一概には語りつくせない。

 (4)時は相模原市の障害者施設での多数の入居者死傷事件から5年目の7月を迎えたばかりで関心も高く、小山田圭吾さんの障害者への自らの過去の「いじめ」体験告白記事の問題とあってはあまりにも印象が悪かった。

 芸術、文化の創造、創作活動は個人の主体的資質、素養、人格、信条、考え、生活とは切り離して考えにくいところがあり、制作者個人の人格と作品の人格は切り離して成り立つものではなく、制作者の人格と作品の人格は別というのも事情判断はむずかしいところがある。

 (5)ケース・バイ・ケースで考えられることであり、作品が文化、芸術、社会性で意義を持ち、制作者が社会問題を起こして影響力を及ぼす恐れがあるなら、まずは制作者自らが判断、意思を示すべきことだ。文化の成熟、高度化社会とはそういうものだろう。

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