(1)もちろん部外者にとっては事件の真相、真実はわかりようもないが、1審で無罪(64年)となり、2審控訴で逆転死刑(69年)の判決、最高裁で上告を棄却し死刑が確定(72年)して(報道)、2審死刑判決から46年、最高裁での死刑確定から43年もたって法務大臣が死刑を執行してこなかったのは、その間弁護側が9次の再審請求を申し立ててきたからだ。
再審請求中、係争中の裁判の判決執行などできないからだ。
(2)三重県名張市での毒ぶどう酒事件で実行犯として逮捕され、冒頭のような経緯で43年前に死刑が確定し9次にわたる再審請求中の奥西死刑囚が拘置43年中に89才で死亡(報道)した。
まだ「自白」が有力証拠の司法時代で、奥西死刑囚は当初は事件を自供したとして逮捕されたが起訴前に否認に転じて(報道)のその後の紆余曲折のあとの死刑確定判決だった。
(3)一時高裁が再審開始を決定したが検察側の異議申し立てで取り消し、上告最高裁が審理不十分として差し戻し、これに再び高裁が再審を取り消し72年に最高裁で死刑が確定するという司法判断として非常に複雑な裁判経緯を辿(たど)った事件であった。
物的証拠よりも自白が重要視された司法歴史の汚点時代であったが、これほど司法判断、判決が大きく揺れた事件もめずらしい。
(4)同時代の死刑確定判決でえん罪が相次いだ中でも、毒ぶどう酒事件は8次にわたって再審請求が退けられてその都度の再審請求で9次の再審請求中という異常審理請求、事態を招いていた。
部外者、シロウトの目には54年前の事件について、物的証拠よりは自白偏重の中で事件に使われたブドウ酒の栓の歯型がどうのとか、当時奥西被告の家にあった薬物と使われた薬物の科学的検証がどうのと言われても、今の時点で真相、真実などわかりようもないと思うし、当時の事件のえん罪が相次いだことと合わせると当時の自白偏重の捜査手法が真相、真実解明を闇の中にしたのだ。
(5)現在の物的証拠主義、科学的捜査手法時代から見ると、自白偏重の判決が左右に大きく分かれて漂流し54年もの間何度も何度も再審請求、棄却がくり返されてきた死刑判決に、被害者、家族側と死刑囚側にそれぞれの言い分はあっても法相は執行許可など出せるはずもない。
(6)判決を執行できない死刑判決(a death decision was not excuted)とは、どういう意味、意義があるのか考えさせられる。
人が人を裁く不条理(unreasonableness)とはいえ、まさか死刑囚の自然発生的最期(a natural death)を待つだけのようなことでは、社会正義のパラダイム(paradigm)としての司法の責任と義務の放棄でしかない。
(7)もっと早くではあるが、今となってもいい、司法の責任で判決を執行できない死刑判決の意味、意義について明確で賢明な結論を導き出す必要があった。
再審請求中、係争中の裁判の判決執行などできないからだ。
(2)三重県名張市での毒ぶどう酒事件で実行犯として逮捕され、冒頭のような経緯で43年前に死刑が確定し9次にわたる再審請求中の奥西死刑囚が拘置43年中に89才で死亡(報道)した。
まだ「自白」が有力証拠の司法時代で、奥西死刑囚は当初は事件を自供したとして逮捕されたが起訴前に否認に転じて(報道)のその後の紆余曲折のあとの死刑確定判決だった。
(3)一時高裁が再審開始を決定したが検察側の異議申し立てで取り消し、上告最高裁が審理不十分として差し戻し、これに再び高裁が再審を取り消し72年に最高裁で死刑が確定するという司法判断として非常に複雑な裁判経緯を辿(たど)った事件であった。
物的証拠よりも自白が重要視された司法歴史の汚点時代であったが、これほど司法判断、判決が大きく揺れた事件もめずらしい。
(4)同時代の死刑確定判決でえん罪が相次いだ中でも、毒ぶどう酒事件は8次にわたって再審請求が退けられてその都度の再審請求で9次の再審請求中という異常審理請求、事態を招いていた。
部外者、シロウトの目には54年前の事件について、物的証拠よりは自白偏重の中で事件に使われたブドウ酒の栓の歯型がどうのとか、当時奥西被告の家にあった薬物と使われた薬物の科学的検証がどうのと言われても、今の時点で真相、真実などわかりようもないと思うし、当時の事件のえん罪が相次いだことと合わせると当時の自白偏重の捜査手法が真相、真実解明を闇の中にしたのだ。
(5)現在の物的証拠主義、科学的捜査手法時代から見ると、自白偏重の判決が左右に大きく分かれて漂流し54年もの間何度も何度も再審請求、棄却がくり返されてきた死刑判決に、被害者、家族側と死刑囚側にそれぞれの言い分はあっても法相は執行許可など出せるはずもない。
(6)判決を執行できない死刑判決(a death decision was not excuted)とは、どういう意味、意義があるのか考えさせられる。
人が人を裁く不条理(unreasonableness)とはいえ、まさか死刑囚の自然発生的最期(a natural death)を待つだけのようなことでは、社会正義のパラダイム(paradigm)としての司法の責任と義務の放棄でしかない。
(7)もっと早くではあるが、今となってもいい、司法の責任で判決を執行できない死刑判決の意味、意義について明確で賢明な結論を導き出す必要があった。