祭李、ツッコミも板について来たな(笑
今週は「終わらない祭り編」でした。
その前に、
祭李はこの間ファミリーに入ったばかりなのに、
もう完全に溶け込んでいる・・・というかみんなの趣向や性格を把握して
華麗に突っ込んでる様にちょっと感動を覚えましたね(笑
なんか、
異端児キャラがツッコミに回るの個人的に昔から好きなんですよね
「らき☆すた」のこなたなんかがツッコミに回ってるのとか大好きだったな。
育に対して、
キャッチボールって認識で間違ぃねぃかぃ?って突っ込むのも面白かったですね
奇天烈に見えて実は常識的でもあるのかもしれない・・・何気に面倒見も良いし、
なんか祭李の株が上がったお話でもありましたね。
ただ、
本題。
そんな祭りが楽し過ぎて、
悪しき神に「永遠の祭り」を願ってしまった
そのお陰で、みんなは生粋の祭りバカに変貌してしまって
元々あった人格すら歪められてしまった・・・という悲惨なオチが待ってました
この話を読んで、
自然とアニメ「忍空」のOP曲の歌詞が頭に浮かびました
❝楽しい事でも 毎日続いたら それと気づかずに 退屈と変わらないね❞
要は、
何事も「終わりがあるから楽しい」んですよね
例えば好きな歌手のコンサートやアニメのイベント等があっても、
正直毎日の様に開かれてたりしてたら有難みが無いし楽しみでもなくなるよね
「たまにあって」「終わりがあるから」心底楽しみに出来るし夢中にもなるし生きる活力にもなる。
毎日お祭りが開催されていたら、
それは❝特別❞でもなく、
ただの❝日常❞になってしまう。それでは、きっと心の底からお祭りを楽しむ事すら出来なくなるだろう。
そういう意味では、イベントってそこに対する準備やその後の精神的愉悦を含めて~なのかも。
普段とはまるで違う、
人格がねじ曲がってしまったみんなと一緒に遊んでも楽しい訳がなかった。
そりゃそうだ、
半ば洗脳されてる人間と遊んで心から楽しい!なんて通常の感覚ならそうは思えないだろう。
だが、
叶えられてしまった今、
最早手遅れ...
と、
思いきや
そこは❝俺たちの恋太郎❞
凄まじい苦痛を受けてでも神の力に抗い死すら厭わない姿勢で無限神に向かってゆきました
流石、タイマンで一人一人の彼女に向き合ってるだけの心意気でありました
正に絶対彼氏の名を欲しいままにしている男ではありましたね
格好良かった!
結果、
恋太郎に降参していつものみんなは戻って来ましたけど、
罪悪感から「祭り好きを名乗る資格がない」と泣いてしまう祭李
だけど、
みんなにとってはみんなの趣向をちゃんと祭李が認めてくれてた事が嬉しかった
洗脳はされてたけど、上記の引用カットの祭李の心の叫びはみんなに伝わってたみたいだった
なので、祭李にもそのまんまで居て欲しい・・・という美しいエンディングでした
きっと、
彼女が悪意で引き起こした事ではないからこそ、
無為に怒らずにそんな風に許してくれたんでしょうね
お互いがお互いの「好き」を認め合い、互いに受け入れながら歩んで行く。。
ある種、人間関係の理想的な形なのでは?と読みながら思っちゃいましたねぇ。
それと、
この164話を読んでて感じたのは、
人は「好き」という感情で生かされてる生き物だ、という事。
「好き」が捻じ曲げられたらその人ではない=
「好き」という感情は何事にも代えがたいものだ。って話ですよね
それがどんなものであれ、
人様に迷惑を掛けてない範疇であるならば、
例えバイオレンスが趣味だろうが何だろうが誰に否定をされる事でもない。
すなわち、
俗に言う❝多様性❞がこの漫画の中には正しい形で存在している。
だから、「自分の好き」は自分そのものなんだから、そのまま貫けば良いんですよ。
そして、その「好き」をちゃんと分かち合える人と付き合う事が大切かなあ、と。
そう考えると、
100カノの娘たちはマジで良い子ばっかりですね・・・笑
そう、
「好き」って想いは何よりも尊いもの。
「好き」って想える気持ちを大事にしていって欲しいです。誰しもに。
今週は「終わらない祭り編」でした。
その前に、
祭李はこの間ファミリーに入ったばかりなのに、
もう完全に溶け込んでいる・・・というかみんなの趣向や性格を把握して
華麗に突っ込んでる様にちょっと感動を覚えましたね(笑
なんか、
異端児キャラがツッコミに回るの個人的に昔から好きなんですよね
「らき☆すた」のこなたなんかがツッコミに回ってるのとか大好きだったな。
育に対して、
キャッチボールって認識で間違ぃねぃかぃ?って突っ込むのも面白かったですね
奇天烈に見えて実は常識的でもあるのかもしれない・・・何気に面倒見も良いし、
なんか祭李の株が上がったお話でもありましたね。
ただ、
本題。
そんな祭りが楽し過ぎて、
悪しき神に「永遠の祭り」を願ってしまった
そのお陰で、みんなは生粋の祭りバカに変貌してしまって
元々あった人格すら歪められてしまった・・・という悲惨なオチが待ってました
この話を読んで、
自然とアニメ「忍空」のOP曲の歌詞が頭に浮かびました
❝楽しい事でも 毎日続いたら それと気づかずに 退屈と変わらないね❞
要は、
何事も「終わりがあるから楽しい」んですよね
例えば好きな歌手のコンサートやアニメのイベント等があっても、
正直毎日の様に開かれてたりしてたら有難みが無いし楽しみでもなくなるよね
「たまにあって」「終わりがあるから」心底楽しみに出来るし夢中にもなるし生きる活力にもなる。
毎日お祭りが開催されていたら、
それは❝特別❞でもなく、
ただの❝日常❞になってしまう。それでは、きっと心の底からお祭りを楽しむ事すら出来なくなるだろう。
そういう意味では、イベントってそこに対する準備やその後の精神的愉悦を含めて~なのかも。
普段とはまるで違う、
人格がねじ曲がってしまったみんなと一緒に遊んでも楽しい訳がなかった。
そりゃそうだ、
半ば洗脳されてる人間と遊んで心から楽しい!なんて通常の感覚ならそうは思えないだろう。
だが、
叶えられてしまった今、
最早手遅れ...
と、
思いきや
そこは❝俺たちの恋太郎❞
凄まじい苦痛を受けてでも神の力に抗い死すら厭わない姿勢で無限神に向かってゆきました
流石、タイマンで一人一人の彼女に向き合ってるだけの心意気でありました
正に絶対彼氏の名を欲しいままにしている男ではありましたね
格好良かった!
結果、
恋太郎に降参していつものみんなは戻って来ましたけど、
罪悪感から「祭り好きを名乗る資格がない」と泣いてしまう祭李
だけど、
みんなにとってはみんなの趣向をちゃんと祭李が認めてくれてた事が嬉しかった
洗脳はされてたけど、上記の引用カットの祭李の心の叫びはみんなに伝わってたみたいだった
なので、祭李にもそのまんまで居て欲しい・・・という美しいエンディングでした
きっと、
彼女が悪意で引き起こした事ではないからこそ、
無為に怒らずにそんな風に許してくれたんでしょうね
お互いがお互いの「好き」を認め合い、互いに受け入れながら歩んで行く。。
ある種、人間関係の理想的な形なのでは?と読みながら思っちゃいましたねぇ。
それと、
この164話を読んでて感じたのは、
人は「好き」という感情で生かされてる生き物だ、という事。
「好き」が捻じ曲げられたらその人ではない=
「好き」という感情は何事にも代えがたいものだ。って話ですよね
それがどんなものであれ、
人様に迷惑を掛けてない範疇であるならば、
例えバイオレンスが趣味だろうが何だろうが誰に否定をされる事でもない。
すなわち、
俗に言う❝多様性❞がこの漫画の中には正しい形で存在している。
だから、「自分の好き」は自分そのものなんだから、そのまま貫けば良いんですよ。
そして、その「好き」をちゃんと分かち合える人と付き合う事が大切かなあ、と。
そう考えると、
100カノの娘たちはマジで良い子ばっかりですね・・・笑
そう、
「好き」って想いは何よりも尊いもの。
「好き」って想える気持ちを大事にしていって欲しいです。誰しもに。