話を日本神話に戻します。
近親婚が神である証明ならば、その神から産まれた「神の子」もまた神です。また、その子孫の神も神の系列。やはり神です。
それらの神については、例を上げるまでも無いでしょう。多くの神がそれに該当します。
以上が聖婚での神の証明の一つと言えますが、まだ神である規定はこれだけではありません。
日本人は古くから自然崇拝と言う宗教観念を持っており、「瀧」や「御神木」、「巨石」等を御神体として崇めています。しかし、自然物の「瀧」や「御神木」そのものが神ではありません。
神が自然物に憑依し化現するから自然物が神となるのです。
言っている意味、お分かりでしょうか。単純に言えば、「瀧」や「木」の自然物が神になることは無いという事です。
これは人間にも当て嵌ります。神が人間に憑依し、化現し神になる事はあっても、人間が神になる事は無いとしているのが神道です。
例を挙げると、「俺は神の子だっ」が口癖の豊臣秀吉が神として祀られていますが、秀吉は神ではありません。人間です。
徳川家康の場合は、南光坊天海や永井直勝あたりが苦肉の策で、家康を薬師如来の生まれ変わりとして奉り、北斗七星の神の傘下に入れ、眷属の彫刻で神威を高めて日光東照宮に祀っていますが、やはり神とは言えません。
強い祟を引き起こす平将門公も神道における神の規定を満たしておりません。
では、同じ祟神の菅原道真公も神じゃないとお思いでしょうが、菅原道真公は神道での神の規定を満たしています。つまり、菅原道真公は神なんです。
何故か分からんでしょ。私も正直シドロモドロなんですが、神は人間になる前から神なんです。
どう言う事かと言うと、神が人間として産まれたとしても初めから神なのですから、人間の父親はいないと言う事です。
道真公の父親は菅原是善とされています。
実際、本当かどうかは知りませんが、菅原是善の前に見知らぬ幼児が現れ、是善が「坊や、どこから来たのだ、父上、母上はどこにいるのだ」と聞いたところ、その幼児は「父上も母上もいないけど、おじさん(是善)の子供になってあげてもいいよ」と言う事で、養子として育てられた事になっています。その幼児こそが菅原道真公です。
つまり、道真公には実の父親がいない訳ですから、神道での神の規定を満たしていると言う事になります。
つづく。