さて、最後に神社に祀られる神が、神とされるプロセスを述べます。
まあ、簡単に述べますと、神が処女(幼女が望ましい)の胎内に宿り、人間として生まれ、人間としての苦悩を体験し、散々な目に合い、終いには殺されて、やがては神として蘇り、民衆を救済すると言うのが一般的と言えます。
これはイエス・キリスト、熊野権現などが代表的です。特に死んで蘇ると言う点は、穀物神の典型的な特徴だと言えます。
菅原道真公の様に祟りを起こし、祟りを鎮めるために祀られるケースもありますが、神社に祀られる事で、祟り神から救済の神として蘇っておりますので、基本は同じだと言えます。
つまり神は、産まれる前から神で、人間として産まれてからも神であり、人間として死んでも神で、神として蘇っても神と言う事です。分かりますかねぇー。
そこで疑問が起こります。それは「私は神の生まれ変わりだ」と宣言する人たちです。
分かりやすくイエス・キリストを例にしますが、人間として産まれて、人々に治癒神として施しをして、ユダヤ教のラビ達から嫉妬され、恨まれ、弟子たちには見捨てられ、民衆から迫害され、最後は十字架にかけられて死亡しています。
つまり、人間の苦しみを知り、人間を理解し、人間を救済するために、人間として最悪の人生を歩み、苦痛極まりない殺され方でとことん人間としての苦しみを経験し、神に戻ったのです。
そんな神であるイエスが、「以前、人間やったことがあるんだけど、今一、人間の苦しみの事、理解できなかったんだよねぇー。しょうがない、もう一回、人間やってみっか」って、成るでしょうか。
神ともあろう者が、人間として生きても人間を理解できず、追試するかの様に人間をやり直す事があるのでしょうか。また、人間をやり直す意味があるのか、それほど神は能力がないのか・・・・・。
まあ、絶対神ヤハウエは、自分に対するアブラハムの忠誠心を知る為、アブラハムの愛する息子・イサクを神への生贄として捧げろ・・・・なんて言っていますから、神と言えども人間の心が分からないのかも知れませんが、私としては神はそんな愚かではないと思うんです。
じゃ、観世音菩薩の生まれ変わりである、ダライラマはどうなのだと言われれば、ダライラマを決めているのは人間な訳ですから、観世音菩薩の眷属を宿しているとは思いますが、観世音菩薩の生まれ変わりではないと思います。
人間が神を決めるのは間違いだと考えます。
それでは、天照大神を宿している青森の木村藤子氏はどうなのかと言えば、それも天照大神の眷属を宿しているからこそ、その霊能力は認めます。何故なら、私も天照大神・豊受大神の眷属に守られて、何とかこれまで生きてこれていますから、それは確信しています。
しかしながら、天照大神自身が出張って木村藤子氏に宿っているとは思えません。今の処、私の考えでは・・・・・。
まあ、これまで長々と書いて来ましたが、読み返してみますと、これって、私のエゴ以外の何物でもないですわねぇー。
全てにおいて確信がある訳ではありませんし、私の様な底辺でのたうち回っている者が発言すべき事ではないなぁーと、書きながら思っていました。
でも、これだけは確信しています。神は畏怖すべき存在であると・・・・・。
神の犠牲により我々は生かされています。それは忘れるべきではありません。
だからこそ、自分が神の生まれ変わりだとか、「♪瀬織津姫~ 貴方を~ 抱きしめたい~」なんて、神と同等の様な発言をし、更には自分の神に対する考えを、自分が神であるかの如く、他人に強制する行為は間違っていると思いましたので、今回、このお題で書き込んだ次第です。
でも、何か、ユダヤ教、キリスト教、仏教の方々から攻撃されそうな事を多少なりとも書いてしまいましたが、これが私の現在の精一杯の考えで御座います。
更に更に考えを深めまして、皆様のように飛躍したいと思いますので、今日のところは平に御容赦下さいませませ。
ではでは。