続きです。そろそろ終わりたいです。
その昔、鹿狼山の頂上では老いた鹿と狼を連れた御手長様がいた。御手長様はその長い手を伸ばして海辺の貝を拾って食べていた。貝殻は鹿狼山の山麓に捨てられていた。その場は貝塚となり手長明神として祀られた。
そんな伝承が残っていますが、私は海辺と鹿狼山山麓に海人であるアタ族が暮らしていたと思っています。
では何故、二か所に分かれて暮らしていたのか。
震災を経験して実感したのですが、当時のこの地域の人々は何度も震災で大津波が来ていたことを承知していた。それは間違いないと思います。
宮城県・岩手県・福島県の海岸に鎮座する神社の大部分は大津波の被害を免れている。伊達政宗の時代にも大津波が来たのですから当然。現代人の方が津波に怠惰な気持ちだった。
そこから海で漁をして、鹿狼山山麓まで魚介類を持ってきて食べて暮らしていた。毎日海まで通っていたと考えていました。チョット無理があるなと思いながら。
でも松川浦からクルマで鹿狼山まで来ましたが、ここを歩いて移動したら日が暮れてしまいます。それだけで一日が過ぎてしまう。先ず無理です。
どちらでも暮らしていたのは間違いないと思いますが、毎日移動していたと言うのは無理。足がボロボロになっちゃう。
では何故分かれて住んでいたのか。それは手長伝説が示している。
手長は鹿狼山の頂上に座って長い手で海から拾っていた、つまり鹿狼山側のアタ族が主導していた。
鹿狼山の頂上からの景色は全てを見渡せます。私はド近眼ですが、古代の人達はかなり視力が良かった筈。視力2.0どころではない。もしかしたらアフリカ人並みに7.0だったりするかもです。
当時、地震と津波の関連は分からなかったでしょう。地震が来ても津波が来るとは限らない。でも鹿狼山の頂上にいれば、地震の後、津波が来るのが分かる。津波が来たら狼煙を上げて海側のアタ族へ知らせ、非難させる事が可能。
松川浦は津波の被害が甚大でした。宮城県でも閖上の町が津波で全滅状態。実は閖上を一望出来る山にも手長伝説が伝わっています。その山は太白山。
太白山に付いては今一分からない点が有りますが、閖上は赤貝の名産地。松川浦は蛤が有名。そして太白山の麓にも貝塚が有る。鹿狼山との共通点が多い。
閖上(ゆりあげ)の「閖(ゆり)」の字は日本中で閖上でしか使われていないそうです。観音像が閖上がったからその地名となりましたが、それって津波で閖上られた事を意味していると考えられます。それだけ昔から閖上は津波に悩まされていた。
だから鹿狼山や太白山ではアタ族が常駐していて津波を山頂で監視していた。海側のアタ族に指令していたと考えます。
勿論、津波に備えてだけではない。山頂に火を灯して灯台の役割も果たしていたと思います。また雨雲の接近も分かるでしょうから、それを狼煙等々で知らせていた。
また、福島県や宮城県はの海沿いの川は鮭が遡上する。目が良いのであれば、それも理由になるかも知れません。
それと、これはどこまで信じていいか分かりませんが、狼煙はその名の通り「狼の糞」を燃やしていたから狼煙です。垂直に煙が昇るそうなので。狼煙は中国から来ているので日本でも狼の糞を使っていたかは不明ですが、鹿狼山の名の通り、この地域は狼が多く住んでいたのは伝承からからも間違いないです。
狼と言うと森を連想しますが、狼も鹿も塩分が大好きな生き物。海の側で生息していたのです。
「送り狼」の伝承が有りますが、人の尿は塩分が強い。だから狼は人の尿を舐めたくて、付かす離れず人を追っかけてくる。それだけ塩が好き。
宮城県・福島県の海側は狼や鹿の楽園だったのは間違いないですね。
続く。
その昔、鹿狼山の頂上では老いた鹿と狼を連れた御手長様がいた。御手長様はその長い手を伸ばして海辺の貝を拾って食べていた。貝殻は鹿狼山の山麓に捨てられていた。その場は貝塚となり手長明神として祀られた。
そんな伝承が残っていますが、私は海辺と鹿狼山山麓に海人であるアタ族が暮らしていたと思っています。
では何故、二か所に分かれて暮らしていたのか。
震災を経験して実感したのですが、当時のこの地域の人々は何度も震災で大津波が来ていたことを承知していた。それは間違いないと思います。
宮城県・岩手県・福島県の海岸に鎮座する神社の大部分は大津波の被害を免れている。伊達政宗の時代にも大津波が来たのですから当然。現代人の方が津波に怠惰な気持ちだった。
そこから海で漁をして、鹿狼山山麓まで魚介類を持ってきて食べて暮らしていた。毎日海まで通っていたと考えていました。チョット無理があるなと思いながら。
でも松川浦からクルマで鹿狼山まで来ましたが、ここを歩いて移動したら日が暮れてしまいます。それだけで一日が過ぎてしまう。先ず無理です。
どちらでも暮らしていたのは間違いないと思いますが、毎日移動していたと言うのは無理。足がボロボロになっちゃう。
では何故分かれて住んでいたのか。それは手長伝説が示している。
手長は鹿狼山の頂上に座って長い手で海から拾っていた、つまり鹿狼山側のアタ族が主導していた。
鹿狼山の頂上からの景色は全てを見渡せます。私はド近眼ですが、古代の人達はかなり視力が良かった筈。視力2.0どころではない。もしかしたらアフリカ人並みに7.0だったりするかもです。
当時、地震と津波の関連は分からなかったでしょう。地震が来ても津波が来るとは限らない。でも鹿狼山の頂上にいれば、地震の後、津波が来るのが分かる。津波が来たら狼煙を上げて海側のアタ族へ知らせ、非難させる事が可能。
松川浦は津波の被害が甚大でした。宮城県でも閖上の町が津波で全滅状態。実は閖上を一望出来る山にも手長伝説が伝わっています。その山は太白山。
太白山に付いては今一分からない点が有りますが、閖上は赤貝の名産地。松川浦は蛤が有名。そして太白山の麓にも貝塚が有る。鹿狼山との共通点が多い。
閖上(ゆりあげ)の「閖(ゆり)」の字は日本中で閖上でしか使われていないそうです。観音像が閖上がったからその地名となりましたが、それって津波で閖上られた事を意味していると考えられます。それだけ昔から閖上は津波に悩まされていた。
だから鹿狼山や太白山ではアタ族が常駐していて津波を山頂で監視していた。海側のアタ族に指令していたと考えます。
勿論、津波に備えてだけではない。山頂に火を灯して灯台の役割も果たしていたと思います。また雨雲の接近も分かるでしょうから、それを狼煙等々で知らせていた。
また、福島県や宮城県はの海沿いの川は鮭が遡上する。目が良いのであれば、それも理由になるかも知れません。
それと、これはどこまで信じていいか分かりませんが、狼煙はその名の通り「狼の糞」を燃やしていたから狼煙です。垂直に煙が昇るそうなので。狼煙は中国から来ているので日本でも狼の糞を使っていたかは不明ですが、鹿狼山の名の通り、この地域は狼が多く住んでいたのは伝承からからも間違いないです。
狼と言うと森を連想しますが、狼も鹿も塩分が大好きな生き物。海の側で生息していたのです。
「送り狼」の伝承が有りますが、人の尿は塩分が強い。だから狼は人の尿を舐めたくて、付かす離れず人を追っかけてくる。それだけ塩が好き。
宮城県・福島県の海側は狼や鹿の楽園だったのは間違いないですね。
続く。