続いちゃいます。
中国の三国志に出てくる魏の曹操は「治世の能臣、有事の奸雄」と呼ばれていました。
源平時代は日本史上、トップクラスの有事の時代だったと言えます。
当然、有事の時代だから奸雄でなければ生き延びられない。平和ボケしていたら領地を奪われ殺される。誰も信用できない時代。多くの者が奸雄だった。
後白河上皇、後鳥羽上皇、平清盛、源義朝、源頼朝、北条時政、北条政子、そして北条義時。その他の鎌倉御家人の大半も奸雄と言えた。
特に北条氏は源頼朝を担いで他の有力御家人を撃破した。同じ平家の血筋でも容赦はしない。狡猾な罠に嵌めて粛清し続けた。
北条氏こそが武家の実質的な棟梁。源氏の征夷大将軍はただの飾り。執権たる北条氏が日本の実権を掴む。朝廷であっても北条氏が管理する。その意志は確実にあった。
そして承久の乱が終了。朝廷をも下した。これで武家の天下となった。北条氏の天下となった。有事の時代は終わった。
しかし、まだ奸雄は残っている。奸雄達との争いに勝利した北条政子と北条義時の姉弟が。
彼らが生きている間はまた有事が繰り返される。そう考えたのは北条泰時。そして大江広元。
北条泰時が私の考え通り源頼朝の息子であったら、父をそして兄弟を滅ぼしたこの二人は許せない。その考えには大江広元も同調している。この二人は殺さなければならない。
北条義時は1224年6月12日、急に重体となる。そして翌日死亡する。62歳だった。
北条政子は1225年5月29日に発病。病状は回復と重篤を繰り返す。そして生きている内にと自分の冥福を祈る仏事を行い、同年7月11日に亡くなる。享年69歳。
私はこの姉弟は北条泰時による暗殺と考えます。北条義時が源頼朝を毒殺したと考えて、泰時も同じ毒殺で義時を殺した。もしかしたら毒キノコで。
北条政子の場合は即効性の毒ではなかったと思われるので、トリカブトなのかも知れません。
そして泰時は北条政子に毒を盛った時に思った。最大の奸雄が残っていることを。その者の名は大江広元。全ての奸雄のブレーンたる男。自分の師とも仰いだが、この男のせいで多くの血が流れた。この者も殺さなくてはならない。
大江広元は晩年病弱になっていました。承久の乱の時は既に死を予感して仏門に入っていた。それでも病を押して承久の乱に参戦した。京への侵攻を一人激しく主張し、鎌倉幕府に勝利をもたらした。
病弱であり78歳と言う高齢であったが、全ての大元は大江広元。大江広元が存在しなければ、鎌倉の武家人の争いは起きなかったとも考えられる。
続く。