諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その16

2022年10月29日 17時39分45秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続いちゃいます。

中国の三国志に出てくる魏の曹操は「治世の能臣、有事の奸雄」と呼ばれていました。

源平時代は日本史上、トップクラスの有事の時代だったと言えます。

当然、有事の時代だから奸雄でなければ生き延びられない。平和ボケしていたら領地を奪われ殺される。誰も信用できない時代。多くの者が奸雄だった。

後白河上皇、後鳥羽上皇、平清盛、源義朝、源頼朝、北条時政、北条政子、そして北条義時。その他の鎌倉御家人の大半も奸雄と言えた。

特に北条氏は源頼朝を担いで他の有力御家人を撃破した。同じ平家の血筋でも容赦はしない。狡猾な罠に嵌めて粛清し続けた。

北条氏こそが武家の実質的な棟梁。源氏の征夷大将軍はただの飾り。執権たる北条氏が日本の実権を掴む。朝廷であっても北条氏が管理する。その意志は確実にあった。

そして承久の乱が終了。朝廷をも下した。これで武家の天下となった。北条氏の天下となった。有事の時代は終わった。

しかし、まだ奸雄は残っている。奸雄達との争いに勝利した北条政子と北条義時の姉弟が。

彼らが生きている間はまた有事が繰り返される。そう考えたのは北条泰時。そして大江広元。

北条泰時が私の考え通り源頼朝の息子であったら、父をそして兄弟を滅ぼしたこの二人は許せない。その考えには大江広元も同調している。この二人は殺さなければならない。

北条義時は1224年6月12日、急に重体となる。そして翌日死亡する。62歳だった。

北条政子は1225年5月29日に発病。病状は回復と重篤を繰り返す。そして生きている内にと自分の冥福を祈る仏事を行い、同年7月11日に亡くなる。享年69歳。

私はこの姉弟は北条泰時による暗殺と考えます。北条義時が源頼朝を毒殺したと考えて、泰時も同じ毒殺で義時を殺した。もしかしたら毒キノコで。

北条政子の場合は即効性の毒ではなかったと思われるので、トリカブトなのかも知れません。

そして泰時は北条政子に毒を盛った時に思った。最大の奸雄が残っていることを。その者の名は大江広元。全ての奸雄のブレーンたる男。自分の師とも仰いだが、この男のせいで多くの血が流れた。この者も殺さなくてはならない。

大江広元は晩年病弱になっていました。承久の乱の時は既に死を予感して仏門に入っていた。それでも病を押して承久の乱に参戦した。京への侵攻を一人激しく主張し、鎌倉幕府に勝利をもたらした。

病弱であり78歳と言う高齢であったが、全ての大元は大江広元。大江広元が存在しなければ、鎌倉の武家人の争いは起きなかったとも考えられる。


続く。




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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その15

2022年10月29日 11時36分34秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
ラストにしたいです。続きです。

大江広元と言う男、一体何者なのか。

朝廷時代は下級貴族だった。父親は藤原光能との説もあるが、大江維光が実父とされている。そして母親が再婚したのか中原広季が養父となる。

兄の中原親能が源頼朝と昵懇の間柄で兄に従って鎌倉入りする。そして鎌倉の文官として頭角を現す。

この大江広元の目的は何なのか。

一つ考えられるのは朝廷への復讐です。

自分は朝廷内でも一番優れている。天皇家である一品親王の血筋である。その自分が朝廷の下級官人。

自分の能力を試したい。下に見られた朝廷に目にもの見せたい。だから鎌倉に下ったのではないか。

源平合戦とは言っても本当に戦ったのは、源義朝と平清盛が戦った保元の乱までです。

私に言わせれば源頼朝は坂東平氏の神輿に乗せられただけの存在。平清盛の平家が滅んだのは、平家同士の愚劣な共食いの戦いだと思っています。平将門の時代から続く。

それなのに源頼朝は平清盛同様、天皇の外親になろうと娘の大姫を後鳥羽上皇へ嫁がせようとしたが、その寸前に大姫は20歳の若さで急死する

それではと二女の三幡を大姫の代わりに後鳥羽上皇へ嫁がせようとするも、三幡も14歳の若さで急死する。

二代目鎌倉殿の源頼家は、蹴鞠を通じて朝廷側に近づくも比企氏と共に北条家に暗殺される。

三代目鎌倉殿である源実朝は自分で源氏の血筋は最後だと宣言し、和歌を通じて朝廷に近づいたが、頼家の子の公暁に殺される。その前には北条家に対抗するために実朝が好を通じていた和田氏も滅ぼされている。

頼朝の子、全員が頼朝同様朝廷側に近づてい殺されている。これは当然、北条家の犯行の可能性がある。北条の血筋であっても源氏の自由は許さない。それはある筈です。

でも、大江広元の影が見えるのです。自分を下級官史として扱った朝廷を潰してやると言うおオエヒロモお意思が感じられる。

私、これら4人の頼朝の子供たちの死。そして頼朝の死は北条氏を操った大江広元が関与していると感じています。

それを北条泰時が知っていたとしたら。自分が残っている最後の頼朝の子であると自覚していたとしたら。

北条泰時と大江広元は戦場で意見が対立したことがあります。

泰時は「自分の今の兵は少数。味方が参陣するのを待って攻撃すべきだ」と主張。

大江広元は「戦は勢いが大事である。今は勢いに乗っている。兵力が僅かでも今の勢いに乗って攻めれば、敵は大勢であっても何か策があるのかと思い怯む。味方もこぞって参陣する。今こそ攻めるべき」と主張した。

結果、泰時は大江広元の主張に従い少人数の兵で参戦。すると味方が大江広元の言う通り、遅れてはならじと参戦。戦は大勝利となり泰時は自分を恥じたと言います。

そこから泰時は大江広元に対し、信仰に近い感情を持ったと思います。

泰時の執権時代、自分の領地拡大は目指さなかった。大江広元の様に御家人達との対立は避けた。御成敗式目を制定し、鎌倉の武家政権を安定させた。

北条泰時は鎌倉時代最高の執権と称されますが、これは大江広元を手本にした。大江広元にあらんとして政治を行ったからだと思います。


続く。






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