こんなに前置きが長くなるとは・・・・。続きます。
承久の乱での勝利。そして3年後の死。北条義時の生涯の目的を達成した。自分の人生に満足して亡くなったのだろうか。
1~2年で義時、伊賀の方、北条政子、大江広元が相次いで亡くなった。自分の役割を終えたように。
義時は享年62歳。当時としては平均寿命なのかもしれないが、父親の時政は77歳まで生きていた。
北条政子は68歳。大江広元は72歳で亡くなった。急死しても不思議な年齢ではない。しかし、短期間でこんなにも主要人物が続けて亡くなるものだろうか。
伊賀の方は多分、40代~50代だったと思います。流罪となって失意の自殺も考えられる。
しかし、源氏・北条氏の流罪は現地で殺されるケースが多い。伊賀の方には義時暗殺の疑惑もあった。
伊賀の方の死が暗殺だったら、誰が殺したのか。一番怪しいのは北条政子でしよう。伊賀の方と争った相手ですし、政子は自分の息子である源頼家を流刑地で暗殺した過去もある。
伊賀の方は自分の息子の北条政村を次の執権にしようと画策した。だとしたらライバルとなる北条泰時の可能性もある。
しかし、北条泰時は伊賀の方による北条義時暗殺は否定している。私もそう思う。夫の義時を殺すメリットが分からない。
三浦義村は北条政村の乳母父。政村が執権になった場合のメリットは享受出来る。
しかし、三浦義村は既に鎌倉幕府での己の権威を確立している。新たな鎌倉殿は三浦義村が選ぶ立場となった。朝廷とのパイプも義村が握っている。事実上、鎌倉幕府でのナンバー1の立場に上り詰めている。
その上、北条政村の執権を支持すれば、北条政子、時房、そして泰時側と対立してしまう。
三浦義村は北条氏の怖さを十分に承知している。鎌倉幕府を全て自分の手にする事は危険だ。北条政子に反対されれば、その意見に従う方が身の為。
では何故、三浦義村は北条政村の執権を擁護したのか。
もしかしたら北条義時の遺言だったのではないか。北条義時は泰時の執権就任を望んでいなかったのではないか。
通例では母方の家柄がものを言う。泰時の母の家柄は不明。地位は低いと思われる。だとしたら次の執権には北条政村がなるのは当然。
その外にも何か理由はあったのか。
あったとしたら、その理由は・・・・・。
続く。