諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その8

2022年10月20日 14時15分47秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

北条義時追討令。承久の乱。これは朝廷対鎌倉幕府との戦いです。後鳥羽上皇としては最初、鎌倉幕府に北条義時の首を差し出す事を期待していたと思います。

鎌倉の御家人は団結力がない。北条家は信奉されていない。乱ばかり起こしている。幕府内での内乱が起きるのではないかと。

しかし、北条政子にはカリスマ性があった。武家は朝廷に不満がある。北条政子はそこを突いた。源頼朝のお陰で武家の立場が向上した。これでまた武家が朝廷に落とされて良いのかと。

それで鎌倉幕府の御家人は団結した。しかし、天皇家は天照大神の血筋。神々の血筋。天皇家に歯向かう事は神に歯向かうようなもの。戦は避けたい。よって足柄山での防御策を採ろうとした。

その策に反対したのは大江広元。彼は朝廷をよく知っている。腐りきった朝廷の戦力を把握している。

大江広元は天皇家において権威の高い一品親王の血筋だが、朝廷では下級貴族の立場であった。腐敗していた朝廷に幻滅して鎌倉に下った。鎌倉幕府は自分の意地の象徴。潰してはならん。

それで断固、京への進軍を唱えた。絶対の自信を持って。

その進言を北条政子、義時も支持した。

鎌倉の勢力は本来、1万騎もなかった筈です。その勢力で京に攻め入る。勝てるのか。鎌倉の御家人の大半はそう思った筈です。

しかし、進軍を続けている間に多くの御家人が鎌倉側に付いた。鎌倉軍に付けば天皇家の所領が手に入る。恩賞が期待できる。

19万人の兵が集まったとされますが、そうなることを大江広元は知っていたのでしょう。そして簡単に勝負がついた。鎌倉軍の大勝利。

後鳥羽上皇は流罪となった。鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置して、朝廷を監視する立場になった。北条義時は朝廷に勝利した。

その承久の乱の3年後、1224年に鎌倉執権・北条義時が62歳で急死する。

北条義時の死には3番目の妻である伊賀の方による毒殺説、そして小姓による刺殺説が流れた。

そして次の執権として伊賀の方は、自分との子である北条政村の就任を画策。政村の烏帽子親である三浦義村もそれを支持した。

当時の嫡子は母方の血筋が左右する。北条泰時の母親の出は不明。執権の地位に就くのは伊賀の方との子である政村が就任するのは当然であった。

それに否を唱えたのは北条政子。政村が執権となれば北条氏が伊賀氏に乗っ取られてしまう。

それで北条政子は三浦義村に談判し、次期執権を北条泰時に確約させる。

伊賀の方は息子の執権就任を画策したとして、北条政子により伊賀氏の変の首謀者として流罪に。流された数か月後に急死する。

そして翌年の1225年。その北条政子と大江広元が相次いで急死となる。

1~2年の間に鎌倉幕府の四大柱である北条義時、伊賀の方、北条政子、そして大江広元が亡くなった事になる。


続く。










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