続きです。
北条時政が畠山氏追討を叫んだ時、北条義時はほくそ笑んだと思います。「これは上手く行けば一石二鳥ではないか」と。
北畠氏に謀反の意思がないのは分っている。畠山重忠は清廉過ぎる性格。源頼朝が生きていた時代、頼朝への謀反を疑われるとハンガーストライキで自決しようとまでした。
謀反の意思がない旨の証書を書かせようとしても「初めからそんな意志などないのだから書く必要がない」と断っている。疑われた時点で死を選ぶ男である。証書よりもその言動が信じられる男である。
しかし、その反面、清廉過ぎるゆえに周りとは同調できない性格でもある。それ故、従兄弟関係にあった和田義盛と三浦義村からも煙たがられていた。
事実、三人の祖父である三浦義明を、平家側だった時代に畠山重忠は殺している。
畠山重忠が平家側に付いたのは訳がある。父親が京都に赴任していたからだ。
自分が源氏側に付いたら京都の父親は平家に殺されてしまう可能性がある。それで仕方なく平家側に付いていた。
畠山重忠が祖父の三浦義明を討ったのにも訳がある。
源頼朝と大庭景親の石橋山の戦いで、平家側の大庭景親が勝利した。川の氾濫で三浦氏が参戦出来なかったのが敗因の一つだった。
頼朝が負けたのに今更参戦しても仕方がない。三浦氏の軍は地元に戻った。そこで畠山重忠の軍と遭遇する。
三浦義村と畠山重忠は従兄弟同士である。本来は敵味方に分かれて戦いたくない。それで暗黙の了解で逢わなかった事とし、互いに無視して戦わずに別れた。その場に和田義盛の弟・和田義持の軍が遅れて遣って来る。
和田義持は畠山軍を見つけるやいなや訳も分からず特攻を仕掛けた。畠山軍は不意を突かれ敗走。30騎の兵を失った。
三浦は自分を裏切った。そう思った畠山重忠は三浦氏の居城である衣笠城を襲う。そして祖父である三浦義明を討っている。
そうなると和田義盛も三浦義村も畠山氏討伐には反対しない。
和田、三浦、畠山が結束したら北条氏としても危ない。一角を崩すにも好機だ。
畠山氏が所有している武蔵国は関東の中心地。北条時政でなくても北条氏にとっては執権を安定的に続ける上でも是非欲しい土地である。
しかも、いろいろとやらかす北条時政を排除する好機でもある。全部、時政のせいに出来る。チャンスである。
北条義時は苦渋の顔をしながら心の中で笑い、北条時政の命に従ったと私は思っております。
続く。