先週だと思うが、新聞の片隅に報道カメラマン・鴨志田穣氏の死亡記事が載っていた。無頼漫画家・西原理恵子の配偶者である「カモチャン」として知られた人だ。
鬱屈した人だとの印象が強い。一旗上げんと海外に雄飛したものの、大したことも出来ずに、現地に居ついてしまった日本人は案外多い。バルブが弾けた後、日本にいられなくなった人の一部に、東南アジアに逃げ込んだ人もけっこう居る。
私も仕事柄、そのような人たちを幾人か知っている。人生の敗残者というには、あまりに陽気で逞しい人が多い。でも、彼らの明るさは、現実を直視しないゆえの虚ろな明るさだ。逞しくみえるのは、ひ弱では食い尽くされることを知っているが故の振る舞いだからだ。
たまに国際電話を受けることがある。未だに敗者復活の夢を語る人もいる。内心無理だと思うが、大概が丁重に聞き役に徹する。下手に刺激して、逆上されても困るし、失うものがこれ以上ない人たちでもあるので、逆切れの可能性を否定できないからだ。
日本でならば、ホームレスとか放浪者としてしか生きていけないのだろうが、東南アジアの貧しい国では、もう少しマシな生き場所があるらしい。それを貧者の優しさと評するのは、少し無理があるかもしれないが、堅苦しい日本よりも寛容な社会であるのは事実であるようだ。
多分、カモチャンもその一人であったのだろう。そのことを自ら自覚していることが、その文章から感じ取れることがある。表題の本は、たしか3冊ほどシリーズ化されていたと思う。やもすると、西原の漫画に押され勝ちであったが、その文章からは世の中の矛盾や、看過し得ない世情の残酷さに擂り潰された情念を滲んでいた。
決して賢明な生き方だとは思わない。思わないが、平穏な人生を送ってきた人が持ち得ない、押し込められた強い激情を持った人生に、目をそらすことが難しいとも思っていた。もう少し、その書いた文を読みたいと、今にして思う。
一度は離婚した西原だったが、最後は復縁してその最後を看取ったようだ。一番身近で見ていた西原が、この配偶者の死をどのように描くのか、あるいは描かないのか。いささか不謹慎ながらも、強い興味がある。
人はいつかは死ぬものだ。私はどのように死に、どのように評されるのだろう。考えても益無きことだと分ってはいるが、少し気になる今日この頃です。
鬱屈した人だとの印象が強い。一旗上げんと海外に雄飛したものの、大したことも出来ずに、現地に居ついてしまった日本人は案外多い。バルブが弾けた後、日本にいられなくなった人の一部に、東南アジアに逃げ込んだ人もけっこう居る。
私も仕事柄、そのような人たちを幾人か知っている。人生の敗残者というには、あまりに陽気で逞しい人が多い。でも、彼らの明るさは、現実を直視しないゆえの虚ろな明るさだ。逞しくみえるのは、ひ弱では食い尽くされることを知っているが故の振る舞いだからだ。
たまに国際電話を受けることがある。未だに敗者復活の夢を語る人もいる。内心無理だと思うが、大概が丁重に聞き役に徹する。下手に刺激して、逆上されても困るし、失うものがこれ以上ない人たちでもあるので、逆切れの可能性を否定できないからだ。
日本でならば、ホームレスとか放浪者としてしか生きていけないのだろうが、東南アジアの貧しい国では、もう少しマシな生き場所があるらしい。それを貧者の優しさと評するのは、少し無理があるかもしれないが、堅苦しい日本よりも寛容な社会であるのは事実であるようだ。
多分、カモチャンもその一人であったのだろう。そのことを自ら自覚していることが、その文章から感じ取れることがある。表題の本は、たしか3冊ほどシリーズ化されていたと思う。やもすると、西原の漫画に押され勝ちであったが、その文章からは世の中の矛盾や、看過し得ない世情の残酷さに擂り潰された情念を滲んでいた。
決して賢明な生き方だとは思わない。思わないが、平穏な人生を送ってきた人が持ち得ない、押し込められた強い激情を持った人生に、目をそらすことが難しいとも思っていた。もう少し、その書いた文を読みたいと、今にして思う。
一度は離婚した西原だったが、最後は復縁してその最後を看取ったようだ。一番身近で見ていた西原が、この配偶者の死をどのように描くのか、あるいは描かないのか。いささか不謹慎ながらも、強い興味がある。
人はいつかは死ぬものだ。私はどのように死に、どのように評されるのだろう。考えても益無きことだと分ってはいるが、少し気になる今日この頃です。