日本では、かつてSFを空想科学小説と呼んでいた。
青少年向けの娯楽ものとの位置づけだったと思う。日本の文壇は、どうゆうわけか男女の愛と別れとか、社会の軋轢に煩悶する人々といったものを、やたらと有り難がる傾向があった。当然にSF小説なんざ際物扱いであり、社会的認知度も非常に低かった。
70年代初頭のことだが、日本SF倶楽部が箱根で総会を開いたことがあった。SF作家たちが意気込んで箱根のホテルに向かったところ、入り口には「日本サッカーファン倶楽部ご一行様」との看板が出迎えてくれたそうだ。そのくらい知られていなかった。
そんな時代にあって日本のSF小説の普及に大きく貢献したのが、星新一、筒井康隆、小松左京の3名だった。SF御三家なんて呼称もあったと記憶している。
なかでも最も大々的に売り出されたのが、小松左京だった。映画にもなった「日本沈没」がその第一弾であったと思う。当時小学生だった私は、この映画を観た後、SF小説を読むようになったぐらいだから、けっこう影響は大きかったと思う。
そのせいか、私としては珍しく小説よりも映画の印象のほうが強い。一番記憶に残っているのは、大地震の場面でもなく、日本が沈没していく場面でもない。エンディングを迎え、主人公がシベリア鉄道にぎゅうぎゅうづめで乗っている場面だ。ディアスポラ(民族離散)を予感させる映像に強く印象を受けた。
子供の頃から聖書に慣れ親しんだ私には、どうしてもイスラエルの民の姿が思い起こされずにはいられなかった。幾たびも故国を追いやられ、世界各地に離散したユダヤの民の苦難は、子供心にも強く非常に感銘を受けたものだった。
もし、日本が故国・日本列島を失ったのなら、果たしてどうなるのか、思いを馳せずにはいられなかった。絶対の唯一神を持つユダヤ人とは異なる宗教観を持つ日本人は、神を根拠に寄り集うことは難しい。象徴天皇を旗頭にすることは、当時(70年代)の風潮からして難しく思えた。
実を言えば、民族離散を経験しているのはユダヤ人だけではない。カチン人やタタール人など歴史の影に埋もれて、忘れ去られようとしている。既に消滅した民族も少なくない。やはり故郷である土地がなくては、民族集団を維持することは難しいようだ。ユダヤ人なぞは例外中の例外なのだと思わざる得ない。
南米、中南米に移住した日本人をみていると、日本人としてのアイディンティティを維持するのは3世代ぐらいが限界かもしれない。よく日本人は独特との日本人論が多く語られるが、案外現地化し、脱日本人化するのも早い気がする。それはそれで、幸せなことかもしれない。所詮、拠点(故国)あっての民族なのだから。
青少年向けの娯楽ものとの位置づけだったと思う。日本の文壇は、どうゆうわけか男女の愛と別れとか、社会の軋轢に煩悶する人々といったものを、やたらと有り難がる傾向があった。当然にSF小説なんざ際物扱いであり、社会的認知度も非常に低かった。
70年代初頭のことだが、日本SF倶楽部が箱根で総会を開いたことがあった。SF作家たちが意気込んで箱根のホテルに向かったところ、入り口には「日本サッカーファン倶楽部ご一行様」との看板が出迎えてくれたそうだ。そのくらい知られていなかった。
そんな時代にあって日本のSF小説の普及に大きく貢献したのが、星新一、筒井康隆、小松左京の3名だった。SF御三家なんて呼称もあったと記憶している。
なかでも最も大々的に売り出されたのが、小松左京だった。映画にもなった「日本沈没」がその第一弾であったと思う。当時小学生だった私は、この映画を観た後、SF小説を読むようになったぐらいだから、けっこう影響は大きかったと思う。
そのせいか、私としては珍しく小説よりも映画の印象のほうが強い。一番記憶に残っているのは、大地震の場面でもなく、日本が沈没していく場面でもない。エンディングを迎え、主人公がシベリア鉄道にぎゅうぎゅうづめで乗っている場面だ。ディアスポラ(民族離散)を予感させる映像に強く印象を受けた。
子供の頃から聖書に慣れ親しんだ私には、どうしてもイスラエルの民の姿が思い起こされずにはいられなかった。幾たびも故国を追いやられ、世界各地に離散したユダヤの民の苦難は、子供心にも強く非常に感銘を受けたものだった。
もし、日本が故国・日本列島を失ったのなら、果たしてどうなるのか、思いを馳せずにはいられなかった。絶対の唯一神を持つユダヤ人とは異なる宗教観を持つ日本人は、神を根拠に寄り集うことは難しい。象徴天皇を旗頭にすることは、当時(70年代)の風潮からして難しく思えた。
実を言えば、民族離散を経験しているのはユダヤ人だけではない。カチン人やタタール人など歴史の影に埋もれて、忘れ去られようとしている。既に消滅した民族も少なくない。やはり故郷である土地がなくては、民族集団を維持することは難しいようだ。ユダヤ人なぞは例外中の例外なのだと思わざる得ない。
南米、中南米に移住した日本人をみていると、日本人としてのアイディンティティを維持するのは3世代ぐらいが限界かもしれない。よく日本人は独特との日本人論が多く語られるが、案外現地化し、脱日本人化するのも早い気がする。それはそれで、幸せなことかもしれない。所詮、拠点(故国)あっての民族なのだから。