ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「アウェーで戦うために」 村上龍

2007-07-03 14:24:46 | 
村上龍の言うように、サッカーというスポーツは、その攻撃の試みのほとんどが失敗に終わる。だからこそ、得点のシーンに観客は狂喜乱舞する。カタルシスの解放という表現は、実に相応しいと思う。

私がサッカーというスポーツに目覚めたのは、中学生の頃だ。最初は分からなかった。が、体育の授業でやってみて、その面白さに気がついた。野球と異なり、自由にグラウンドを動けて、なおかつ手以外の全身を使うところが面白かった。いや、実際は手も使う。

上手い奴がいた。中学の都大会でベスト・イレブンに選ばれた奴だったが、実に上手かった。ボールを取ろうと身体を寄せても、手で阻まれた。リバウンドのボールに先に足が届いても、手で軽く押されてバランスを崩したところで、あっさりボールを奪われた。悔しいよりも、驚きを隠せなかった。

サッカー部に入部しなかったのは、素行が悪く、時々お上の世話になっていたので、迷惑がかかると思ったからだ。もっとも、真面目に走るのが嫌いだったのも大きな理由だった。

だから、もっぱら応援するに留まった。観るのは大好きだった。なかでも、深夜の三菱ダイヤモンド・サッカーという番組がお気に入りだった。ここで初めてペレやクライフ、ベッケンバウアー等を知った。ジョージ・ベストという、今風で言えばイケ面の選手は忘れがたい。マンチェスターUNの看板選手だった。軽くボールに触れただけで、ゴールにボールを押し込む、気障なプレーが実に似合う選手だった。

翌朝、友達と公園でサッカーで遊ぶが、とてもあのような華麗なボールさばきは出来なかった。でも、高校サッカーや日本リーグの選手には、ボール扱いがとても上手い選手はいた。しかし、世界相手では勝てなかった。当時から気になっていたのが、何故日本のサッカーは弱いのか、だった。

表題の本(エッセー)を読んで思ったのは、日本では失敗することを前提にした教育をしていないことだ。学校で教えることは、常に正解を持つ問題だけだ。例えば数学の因数分解などは、その典型だと思う。高等数学をやってた方なら自明のことだが、因数分解では、整数解を持たないほうが実際は多い。しかし、学校(高校まで)は整数解がでる問題しかやらない。

別に社会に出なくても分かると思うが、世の中常に正解があるとは限らない。問題はあっても、正解がないことは珍しくない。正解だと思っていても、その後の研究などにより間違いとされることだってある。しかし、日本の学校教育では、常に正解の出る問題しかやらせない。

これを完全に間違いだとは言わない。学力向上の基礎的手段としては決して悪くない。また、役人を育成する手法としても、効果的な手法だと思う。しかし、万能ではないはずだ。世の中、常に正しい答えがあるわけじゃないことは、否が応でも思い知らされる。トライ&エラーの繰り返しで、エラーの確率を低め、成功を目指すのが現実だ。

私が日本のサッカーで、何が嫌いかといって、常に安全策を追求することだ。ボールを持ったら、一番ゴールの確率の高い選手へパスすることを求めるサッカーが嫌いだ。パスしかしない選手は浮ュない。パス、ドリブルそしてシュートと複数の選択肢があるからこそ、守る側は迷う。そこにチャレンジする機会が生じる。

しかし、常に安全策をとる日本のサッカーにはチャレンジがないから嫌いだ。まずは一対一だと思う。多分、ほとんど抜けないかもしれない。それでも抜ければ、格段にチャンスは拡がる。失敗は多数生じるはずだが、繰り返せねば成功はありえない。

英語で言えば「Nice Try」だと思うが、多分適切な日本語訳はないと思う。「よくやった」程度では物足りない。失敗に終わった挑戦を褒める気風が日本には乏しいと思う。これこそが、日本のサッカーの最大の弱点だと思う。
コメント (2)
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