「在日」という言葉は、なぜか韓国籍と北朝鮮籍の人たちに限定されている感がある。
本当は、在日ブラジル日系人や在日アメリカ人などもいるのだが、不思議と朝鮮半島出身者及びその家族に多用される言い方になっている。
私の在日朝鮮人に対する思いは複雑だ。なにしろ相当に痛い目にあっている。嫌いだと断言したいのだが、そう簡単な問題でもない。子供の頃から、在日の人々が身近に居たため、彼らの置かれている状況の複雑さに思いを寄せずにはいられないからだ。
ご存知だろうか?ヤクザや右翼の相当数は、在日の人たちに占められていることを。安易に危ない人たちだと思わないで欲しい。彼らを裏社会に追いやったのは、閉鎖的な日本の社会構造があってこそだ。どんなに勉強して、いい学校へ行っても、大企業には就職出来ない現実。結婚にだって、相当な差別と偏見が溢れている。だからこそ、在日の人たちは裏社会に流れ勝ちとなる。もちろん、多数の人たちは真面目な市民でありたいと思っている。その場合、大概が自営業者となる。
私がその差別に気づいたのは、教会の活動を通じてだった。素行の悪い子供であった私を心配して、母は私を近所のキリスト教の集まりに連れて行った。転校が多く、孤立しがちだった私はそこで安住の地を得た。月日がたつうちに、私は気がついた。教会というところは、ヤクザや右翼と同様にはぐれ者の行き着く先の一つであることに。
学校で浮いていた私を優しく受け入れてくれた教会の人たちには、意外なほど在日の人たちが多かった。皆、優しく真面目な人たちだった。親しくなるうちに、やがて彼らの抱えている苦悩の一端を知ることとなる。個人では解決できない、複雑に強固に絡まった過去のしがらみが心を縛る。
在日の人たちに、半島へ帰れと指弾する人もいるが、朝鮮半島は日本以上に閉鎖的で排他的な社会だ。現在日本にいる在日朝鮮人たちは、強制連行されて日本に来たのではない。あくまで、自らの意志で日本にやってきた人と、その子孫たちだ。彼らは帰りたくとも帰れない人たちでもある。
日本に帰化すればいいのだろうが、歴史的な経緯と、長年虐げられた被害者意識が歪んだ優越感を育んできたことが災いして、帰化には相当な抵抗感がある。私は帰化した人を何人も知っているが、休日には日の丸を掲げるような日本人らしからぬ愛国者になってしまうことがある。どうも、極端に振れ易い民族性を持っているようだ。
以前書いたとおり、中学生の頃に在日朝鮮人の連中と喧嘩になり、足腰が立たないほど叩きのめされたことがある。痛みに耐えつつ布団のなかで、恨みの呪詛を繰り返した。そんな私でも、彼らから受けた優しい抱擁や、暖かい寛容の気持ちまで忘れることは出来なかった。彼らが抱えている、矛盾と苦悩を無視することは出来なかった。
私は文学というものを、現実と理想の狭間においてこそ光り輝くものだと理解している。だからこそだろう。近年、映画、小説などの文撃フ世界で、在日朝鮮人の人たちの活躍が目立つ。表題の作品も、読後感が爽快な小説で、直木賞を受賞したのも相応だと思う。
長年の朝鮮総連の暴虐ぶりや、在日朝鮮人の犯罪者の非道に怒るのはいい。しかし、その一方で真面目に、善良によき市民であった在日朝鮮人も多数存在している現実を無視はしたくない。嫌な奴もいるだろうが、尊敬すべき、あるいは好意をもてる奴だっていることは、忘れずにいたいものだ。
本当は、在日ブラジル日系人や在日アメリカ人などもいるのだが、不思議と朝鮮半島出身者及びその家族に多用される言い方になっている。
私の在日朝鮮人に対する思いは複雑だ。なにしろ相当に痛い目にあっている。嫌いだと断言したいのだが、そう簡単な問題でもない。子供の頃から、在日の人々が身近に居たため、彼らの置かれている状況の複雑さに思いを寄せずにはいられないからだ。
ご存知だろうか?ヤクザや右翼の相当数は、在日の人たちに占められていることを。安易に危ない人たちだと思わないで欲しい。彼らを裏社会に追いやったのは、閉鎖的な日本の社会構造があってこそだ。どんなに勉強して、いい学校へ行っても、大企業には就職出来ない現実。結婚にだって、相当な差別と偏見が溢れている。だからこそ、在日の人たちは裏社会に流れ勝ちとなる。もちろん、多数の人たちは真面目な市民でありたいと思っている。その場合、大概が自営業者となる。
私がその差別に気づいたのは、教会の活動を通じてだった。素行の悪い子供であった私を心配して、母は私を近所のキリスト教の集まりに連れて行った。転校が多く、孤立しがちだった私はそこで安住の地を得た。月日がたつうちに、私は気がついた。教会というところは、ヤクザや右翼と同様にはぐれ者の行き着く先の一つであることに。
学校で浮いていた私を優しく受け入れてくれた教会の人たちには、意外なほど在日の人たちが多かった。皆、優しく真面目な人たちだった。親しくなるうちに、やがて彼らの抱えている苦悩の一端を知ることとなる。個人では解決できない、複雑に強固に絡まった過去のしがらみが心を縛る。
在日の人たちに、半島へ帰れと指弾する人もいるが、朝鮮半島は日本以上に閉鎖的で排他的な社会だ。現在日本にいる在日朝鮮人たちは、強制連行されて日本に来たのではない。あくまで、自らの意志で日本にやってきた人と、その子孫たちだ。彼らは帰りたくとも帰れない人たちでもある。
日本に帰化すればいいのだろうが、歴史的な経緯と、長年虐げられた被害者意識が歪んだ優越感を育んできたことが災いして、帰化には相当な抵抗感がある。私は帰化した人を何人も知っているが、休日には日の丸を掲げるような日本人らしからぬ愛国者になってしまうことがある。どうも、極端に振れ易い民族性を持っているようだ。
以前書いたとおり、中学生の頃に在日朝鮮人の連中と喧嘩になり、足腰が立たないほど叩きのめされたことがある。痛みに耐えつつ布団のなかで、恨みの呪詛を繰り返した。そんな私でも、彼らから受けた優しい抱擁や、暖かい寛容の気持ちまで忘れることは出来なかった。彼らが抱えている、矛盾と苦悩を無視することは出来なかった。
私は文学というものを、現実と理想の狭間においてこそ光り輝くものだと理解している。だからこそだろう。近年、映画、小説などの文撃フ世界で、在日朝鮮人の人たちの活躍が目立つ。表題の作品も、読後感が爽快な小説で、直木賞を受賞したのも相応だと思う。
長年の朝鮮総連の暴虐ぶりや、在日朝鮮人の犯罪者の非道に怒るのはいい。しかし、その一方で真面目に、善良によき市民であった在日朝鮮人も多数存在している現実を無視はしたくない。嫌な奴もいるだろうが、尊敬すべき、あるいは好意をもてる奴だっていることは、忘れずにいたいものだ。