ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ゆとり教育の成果?

2007-07-14 13:31:07 | 社会・政治・一般
最近耳にしている、ちょっと気になる話。

ゆとり教育が、学校の現場で採用されて、ついにその学生たちが社会に巣立ちだした。彼ら新・社会人たちを受け入れた企業や官庁が今困っている。

大事な事なので、予め断っておきますが、全ての新・社会人ではありません。その一部の若者たちだけだと思う。されど、その一部が問題だ。国費を使ってアメリカの大学に留学させたはいいが、語学力はともかくも、基礎学力が不足しているため退学に至ったエリート(のはず)官僚の若者の話が産経新聞に書かれていた。これは氷山の一角なのだろう。

当然、知っていると思っていたことが通じない新・社会人に、先輩社員たちが戸惑っている話は、時折小耳に挟んでいた。困るのは、当の若者たちは自分は悪いと思っていないので、知らないことを反省する気もないように見受けられることだ。ある新人教育担当者は嘆く「学習能力が低いというより、学習意欲が低い」。

やる気はあっても「理解することを優先して、覚えようとしないから、先に進まなない」。なぜかというと、近年学校では教科書を使わず、自製のプリントで時間をかけて授業を行うことが横行しているからだ。別に先生が苦労して作ったプリントを使うことを悪いとは言わない。問題は中身だ。

例えば、ピタゴラスの定理を生徒に、1から考えさせる先生が実在する。その先生に言わせると、1から考えさせることで、生徒の思考力を養うのだと言う。ここで、なるほどなどと安易に共感してはいけない。なぜなら、その授業を受けた生徒の大半は、呆然と時間を浪費する。

当たり前だ。ピタゴラスが長い年月思索と試行を積み重ねて得られた定理を、十代の若者に同じ思考をすることを求めて成果が出るわけ無い。結果的に、そのプリント授業をした後、試験で好成績を挙げるのは、塾などでピタゴラスの定理を暗記して使いこなす勉強をした生徒だけとなる。

もともと暗記重視であった過去の学校教育の反省から、ゆとり教育は生まれたはずだった。ところが実際にやってみると、理解の重視、考える力の柔軟性を求めたはずなのに、結果的には思考力の低い生徒を生み出すばかり。

やはり学習の基本は、暗記と反復練習が基礎になると思う。定理や公式は、アルキメデスやフーコーなどの先人たちが長い間苦労して編み出したもので、その編み出し方は高度な思索の成果であって、生徒が真似すべきものではない。知識は使いこなしてこそ役に立つ。使いこなすには練習を繰り返すことが必要となる。

真似して繰り返すことこそ、勉強の王道なのだと思う。こうして基礎的な学習を積み重ねた後、真の思考力が培われる。これは退屈なやり方でもあるが、一番成果が出やすい方法なのだろう。

人間、誰でも楽をしたがるものだ。ゆとり教育は、その当初の目的とは裏腹に、生徒たちを楽させてしまった。その結果、学力の低い若者たちが続出する羽目に陥った。

はじめに、一部の若者たちだと断りをいれたが、この一部は今後どんどん増えていくと思われる。これからの日本は、少子高齢化に加えて、学力低下にも頭を痛めることになる。あたしゃ、少々気が重くなってきましたゾ。
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする