梅雨の季節が好きな人は少ないと思う。でも、どんよりした曇り空を眺めながら、私はそう悪いものではないと考えている。
20代のほとんどを病気療養で過ごした私にとって、夏の青い空は苦痛であった。身体を壊す前は、夏はほとんんど東京には居なかった。山に登っていることが多かったが、海にも必ず行っていた。東京に居るときは、バイトをしているか、夜遊びをしているかのどちらかだった。勉強?まあ、言い訳程度にやったかな。
夏の青い空は、当然のように天上に輝くものと思い込んでいた。それなのに、一日中病室の窓から覗く青い空は、苦痛以外のなにものでもなかった。失われたものを思い起こさずにはいられなかった。
もう山に行き、暑く輝く太陽の下で汗をかくことはなく、木陰で涼をとりながら、梢の隙間から輝く日差しを眩しく思うこともない。ただ、ただ、薬を飲んで床に横たわるだけの毎日。夏の青空は、病み衰えた私には苦痛そのものだった。
その点、梅雨の曇り空はいい。輝くこともなく、眩しくもない。鈍重な灰色の空は、沈殿した私の心象そのものだ。皮肉なことに、このどんよりした梅雨の空ほど、私の気持ちを癒した空はない。
紫陽花の花だけが、うっすらと輝く梅雨の季節は、よくよく見つめると滋養の季節でもある。雨にぬかるんだ地面の下では、植物が根を伸ばし、栄養を吸い上げる。わずかな日照しかないゆえに、葉は可能な限り広がろうと努力する。やがてくるはずの夏に向けての準備の季節が梅雨だった。
湿気た空気が不快だが、私には冬の乾燥した空気のほうが気管を傷めるゆえに、肌にぬめる湿気さえありがたく思えた。灰色の曇り空は、たしかに気分を重くさせるかもしれないが、だからこそ梅雨明けの夏の青空が殊更待ち遠しくなる。希望が輝くには、失意の暗闇が必要なのだろう。
梅雨の重苦しさは、病んだ自分を癒し慰めた。やがてくる夏の輝きを甘受するには、梅雨は必要な準備でもあった。
明るいカルフォルニアの空の下で育ちながら幸せを見出すことができずに、ニューヨークの喧騒に身を潜めた、西から来た少年ヒース。貧しい暮らしと、厳しい季節。次から次にと訪れる不幸と事故は、ヒースを決して幸せにはしなかったが、間違いなく彼を大人に仕立て上げた。
初めて読んだ時は、その後のヒースが予想もつかず、漠然とした気持ちにさせられたので、あまり好きになれなかった作品でした。が、今にして読み返すと、ニューヨークの厳しい暮らしは、きっとヒースの次なる人生のステージを飛躍させる準備期間であったと確信できるのです。
20代のほとんどを病気療養で過ごした私にとって、夏の青い空は苦痛であった。身体を壊す前は、夏はほとんんど東京には居なかった。山に登っていることが多かったが、海にも必ず行っていた。東京に居るときは、バイトをしているか、夜遊びをしているかのどちらかだった。勉強?まあ、言い訳程度にやったかな。
夏の青い空は、当然のように天上に輝くものと思い込んでいた。それなのに、一日中病室の窓から覗く青い空は、苦痛以外のなにものでもなかった。失われたものを思い起こさずにはいられなかった。
もう山に行き、暑く輝く太陽の下で汗をかくことはなく、木陰で涼をとりながら、梢の隙間から輝く日差しを眩しく思うこともない。ただ、ただ、薬を飲んで床に横たわるだけの毎日。夏の青空は、病み衰えた私には苦痛そのものだった。
その点、梅雨の曇り空はいい。輝くこともなく、眩しくもない。鈍重な灰色の空は、沈殿した私の心象そのものだ。皮肉なことに、このどんよりした梅雨の空ほど、私の気持ちを癒した空はない。
紫陽花の花だけが、うっすらと輝く梅雨の季節は、よくよく見つめると滋養の季節でもある。雨にぬかるんだ地面の下では、植物が根を伸ばし、栄養を吸い上げる。わずかな日照しかないゆえに、葉は可能な限り広がろうと努力する。やがてくるはずの夏に向けての準備の季節が梅雨だった。
湿気た空気が不快だが、私には冬の乾燥した空気のほうが気管を傷めるゆえに、肌にぬめる湿気さえありがたく思えた。灰色の曇り空は、たしかに気分を重くさせるかもしれないが、だからこそ梅雨明けの夏の青空が殊更待ち遠しくなる。希望が輝くには、失意の暗闇が必要なのだろう。
梅雨の重苦しさは、病んだ自分を癒し慰めた。やがてくる夏の輝きを甘受するには、梅雨は必要な準備でもあった。
明るいカルフォルニアの空の下で育ちながら幸せを見出すことができずに、ニューヨークの喧騒に身を潜めた、西から来た少年ヒース。貧しい暮らしと、厳しい季節。次から次にと訪れる不幸と事故は、ヒースを決して幸せにはしなかったが、間違いなく彼を大人に仕立て上げた。
初めて読んだ時は、その後のヒースが予想もつかず、漠然とした気持ちにさせられたので、あまり好きになれなかった作品でした。が、今にして読み返すと、ニューヨークの厳しい暮らしは、きっとヒースの次なる人生のステージを飛躍させる準備期間であったと確信できるのです。