憧れが失望に変わると、人は案外と残酷になれるらしい。
そう考えて裏切ったのがデイビーボーイ・スミスだと思う。ファンのみならず、同業のプロレスラーからも敬意を払われたイギリスのダイナマイト・キッドの親戚であったスミスは、子供の頃からキッドに憧れていた。だから当然にプロレスラーになりたがった。
キッドに助言を請い、身体を鍛えてカナダに渡り、カルガリーをテリトリーとしていたハート一族に気に入られて活躍。その実力を認めたダイナマイト・キッドとタッグを組み、日本ではブリティッシュ・ブルドッグスとして人気を博した。
キッドのスピードとタフネス、スミスの怪力とラフなレスリングの組み合わせは、目の肥えた日本のプロレスファンにも高く評価された。二人はやがてプロレスの本場アメリカに渡った。そして最も派手で人気もあったNYのWWFで活躍した。
もちろんリーダーはキッドであり、スミスは弟分というタッグチームであった。実際問題、実力から言ってもキッドがリーダーであることに問題はなかった。だが、小柄なキッドは相当に危ないプロレスをやり続けた結果、満身創痍となっていた。
加えて大男が珍しくないアメリカのプロレス界でやっていく以上、ステロイド剤を服用して筋肉を肥大させたことと、鎮痛剤の濫用から心身ともに荒れるようになっていった。
そんなキッドを醒めてみていたのがスミスだった。幼い頃から憧れたプロレスラー、ダイナマイト・キッドの痛ましい姿に徐々に野心が芽生えていったはずだ。スミスの配偶者は、ハート一族の出であり、彼女も背中を押したと思う。
スミスは「ブリティッシュ・ブルドッグス」の商標を勝手に取り、無断でコンビを解消して日本に渡った。プロモーターである馬場に「キッドはもう満身創痍でプロレスは出来ない」と伝え、シングル・プレイヤーとしての自分を売り込んだ。
なにも知らなかったキッドは激怒したが、もう身体が自由にならなかった。気が付いたらキッドはプロレス界から姿を消していた。事の真相が分かってきたのは、キッドが車椅子姿となり、人々の前に姿を現してからだ。
ところでスミスは成功したのか。ある程度の活躍をしたことは確かだ。常に苦虫を噛んだような渋い表情のキッドに対し、スミスは笑顔が似合う好青年であり、実際女性人気は高かった。
だがその人気は長続きしなかったように思う。その喧嘩強さから敬意を払われていたキッドと異なり、スミスの派手なパワー重視のプロレスラーぶりは、案外と他のプロレスラーから嫉妬されたように思う。怖いキッドがそばに居ないのならばとスミスは攻撃を過度に受けることが多かったように思う。
スミスもまた怪我を重ね、気が付いたら薬物依存が高まり、遂には突然死であった。まだ若かった上、年長のキッドよりも先に逝去してしまった。スミスの葬儀にキッドは顔を出さなかったと伝えられる。
スミスは彼なりに自分の人生における成功を望んでいた。イギリスの貧しい労働者階級の子から、華やかなプロレスのリング上でスター選手として輝いた彼は、たしかに成功者として顔を持つ。
心身共に傷つき荒れていたダイナマイト・キッドから離れた方向性は間違っていなかったと思う。ただ、その離れ方が不味かった。恩人でもあったキッドを切り捨てた遣り口は、口には出さないが少なからぬ関係者の不興を買ったのではないか。
「ダンスは一人では踊れない」と語ったのは、ニックボック・ウィンクルであった。AWAのチャンピオンとして長く活躍したニックは、プロレスが周囲の人間との協調が大事であることを熟知していた。
喧嘩上手なキッドは、案外と仲間作りも上手かった。そのあたりを学ばなかったのは、スミスの失敗の原因ではないかと思うのです。
そう考えて裏切ったのがデイビーボーイ・スミスだと思う。ファンのみならず、同業のプロレスラーからも敬意を払われたイギリスのダイナマイト・キッドの親戚であったスミスは、子供の頃からキッドに憧れていた。だから当然にプロレスラーになりたがった。
キッドに助言を請い、身体を鍛えてカナダに渡り、カルガリーをテリトリーとしていたハート一族に気に入られて活躍。その実力を認めたダイナマイト・キッドとタッグを組み、日本ではブリティッシュ・ブルドッグスとして人気を博した。
キッドのスピードとタフネス、スミスの怪力とラフなレスリングの組み合わせは、目の肥えた日本のプロレスファンにも高く評価された。二人はやがてプロレスの本場アメリカに渡った。そして最も派手で人気もあったNYのWWFで活躍した。
もちろんリーダーはキッドであり、スミスは弟分というタッグチームであった。実際問題、実力から言ってもキッドがリーダーであることに問題はなかった。だが、小柄なキッドは相当に危ないプロレスをやり続けた結果、満身創痍となっていた。
加えて大男が珍しくないアメリカのプロレス界でやっていく以上、ステロイド剤を服用して筋肉を肥大させたことと、鎮痛剤の濫用から心身ともに荒れるようになっていった。
そんなキッドを醒めてみていたのがスミスだった。幼い頃から憧れたプロレスラー、ダイナマイト・キッドの痛ましい姿に徐々に野心が芽生えていったはずだ。スミスの配偶者は、ハート一族の出であり、彼女も背中を押したと思う。
スミスは「ブリティッシュ・ブルドッグス」の商標を勝手に取り、無断でコンビを解消して日本に渡った。プロモーターである馬場に「キッドはもう満身創痍でプロレスは出来ない」と伝え、シングル・プレイヤーとしての自分を売り込んだ。
なにも知らなかったキッドは激怒したが、もう身体が自由にならなかった。気が付いたらキッドはプロレス界から姿を消していた。事の真相が分かってきたのは、キッドが車椅子姿となり、人々の前に姿を現してからだ。
ところでスミスは成功したのか。ある程度の活躍をしたことは確かだ。常に苦虫を噛んだような渋い表情のキッドに対し、スミスは笑顔が似合う好青年であり、実際女性人気は高かった。
だがその人気は長続きしなかったように思う。その喧嘩強さから敬意を払われていたキッドと異なり、スミスの派手なパワー重視のプロレスラーぶりは、案外と他のプロレスラーから嫉妬されたように思う。怖いキッドがそばに居ないのならばとスミスは攻撃を過度に受けることが多かったように思う。
スミスもまた怪我を重ね、気が付いたら薬物依存が高まり、遂には突然死であった。まだ若かった上、年長のキッドよりも先に逝去してしまった。スミスの葬儀にキッドは顔を出さなかったと伝えられる。
スミスは彼なりに自分の人生における成功を望んでいた。イギリスの貧しい労働者階級の子から、華やかなプロレスのリング上でスター選手として輝いた彼は、たしかに成功者として顔を持つ。
心身共に傷つき荒れていたダイナマイト・キッドから離れた方向性は間違っていなかったと思う。ただ、その離れ方が不味かった。恩人でもあったキッドを切り捨てた遣り口は、口には出さないが少なからぬ関係者の不興を買ったのではないか。
「ダンスは一人では踊れない」と語ったのは、ニックボック・ウィンクルであった。AWAのチャンピオンとして長く活躍したニックは、プロレスが周囲の人間との協調が大事であることを熟知していた。
喧嘩上手なキッドは、案外と仲間作りも上手かった。そのあたりを学ばなかったのは、スミスの失敗の原因ではないかと思うのです。
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