ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ARMS」 皆川亮二

2007-04-23 12:29:16 | 
もう殴り合いの喧嘩をしなくなって20年以上たつ。それなのに、未だに消えない傷がいくつかある。もちろん、忘れることも出来ない痛みも覚えている。

私が十代の大半を過ごした街には、韓国人居住区があり、中学校の隣りは朝鮮学校だった。近所にも在日韓国人、朝鮮人の子供は何人もいて、小学校までは一緒に遊んでいた。遊ぶのに国籍なんて関係ないし、お互い日本語しか話さなかった。

ところが中学進学とともに一変した。忘れもしない中学の入学式。校庭での式典に向かおうとすると、コンクリの壁一枚隔てて、角材や鉄パイプを手にした隣の朝鮮学校の生徒たちが威嚇してきた。一種異様な雰囲気に呑まれた。

以後、近所の幼馴染たちとも一線を引くこととなった。理由は分らなかったし、誰も教えてくれなかったが、それを訊ける雰囲気でないことは子供心にも分った。いやでも分らされた。

放課後、近所の公園でなにするともなしに、友人3人とフラフラしていたら、7人ほどの朝鮮学校の生徒たちのかち合った。やばいと思い、逃げ出したら、更に5人ほど待ち伏せの連中がいて、やむを得ず喧嘩になった。

向こうは角材やバットなどを持っていたが、こちらもお手製のブラックジャックで応戦した。が、人数差が倍以上では勝負にならない。隙を見て逃げ出した。が、投げつけられたバットに足が絡まり、私一人がこけた。胸から落ちて、息が詰まって動けなくなった。

丸まって、連中からボコボコに殴られ、叩かれた。死んだふりではないが、ジッと耐えていた。終わったかな・・・と思ったら、突然背中に火が押し付けられたような激痛が走った。後から来た朝鮮人が、自転車のチェーンで私を滅多打ちにしたらしい。

あまりの苦痛で、気絶することも出来ずのた打ち回っていた。ふと、気が付くと同じ中学の仲間に運ばれていた。助けられたらしい。背中の肉がはぜるほどの傷だったが、若かった私は3日ほど寝込んだだけで復活した。当然、大の朝鮮人嫌いになっていた。

その後、何回か争ったが、不思議なもので、いつのまにやら境界線のようなものが出来て、それを侵さぬ限り喧嘩になることはなかった。ただ、この境界線は毎年春から夏にかけて、場所が変わっていた。それはその時の力関係で変わるもののようだった。

中二の終りには、堅気になっていたため、その手の世界とも縁を切ったのだが、不思議に思っていたことがある。誰が私を助けてくれたのだろう?後で聞いたのだが、中学の仲間は公園のベンチに寝かされていた私を見つけただけで、朝鮮学校の連中の姿は見てないそうだ。

私とやりあった朝鮮学校の連中に顔見知りはいなかった。でも、彼ら以外止める人間がいるはずない。不思議に思っていたが、調べる術もなく、そのまま月日が過ぎ去った。

でも、今なら何となく分る。自転車のチェーンって武器は、少々危険すぎる武器なのだ。肉体を傷つける割合が大きく、その衝撃は内臓に届くほど破壊力を有する。想像でしかないが、おそらくはチェーンで滅多打ちの光景に、殺すかもしれないとの恐れが他の朝鮮人学校の生徒をして止める決心をさせたのではないだろうか。止めるとしたら、彼ら自身しか考えられない。

強力すぎる武器は、得てして自滅の武器でもある。私は古い靴下に小石と砂を混ぜたお手製のブラック・ジャックを愛用していたが、殴っていい場所、悪い場所くらいは知っていた。殺すかもしれない恐れは、常に頭の片隅にあった。

強い武器は、それを制する強い心あってこそ役に立つ。

表題の漫画は、長く週刊少年サンデーに連載されていました。心ならずも、強力な武器を身につけられた少年少女たちの成長と戦いの物語です。大切なものを守るため、戦わねばならぬこと。そして戦うだけでは戦いを終わらせることは出来ないことを、苦しみもがきながら学び、身につけていく少年たちの成長が、たいへんに心地よい良作だと思います。
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プロレスってさ 国際プロレス

2007-04-20 11:04:02 | スポーツ
子供の頃、父に連れられて時々プロレスを見に行った。

市立体育館とかの地方巡業の試合がほとんどだった。後年新日本プロレスがしばしばやってた東京ドームなどの大きな会場での試合など、当時は滅多になかった。地方巡業こそが、プロレスのメインとなる舞台であったと思う。

私がよく行ったのは、立川市民体育館だったと思う。まだ立川米軍基地がある頃だったから、アメリカ兵の家族もしばしば観に来ていたと記憶している。そのせいか、外人レスラーがけっこう頑張るので、面白い試合が多かった。日本人レスラーも心得たもので、外人レスラーに花をもたせる試合ぶりだった。

東京ドームや武道館と違って会場が狭いため、観客にとってみると臨場感にあふれたプロレスが見られた。リングサイドの席は高かったが、なに、席に座らなければ結構近くで試合を観れた。当時は子供の立ち見には、どこも寛容だった。

最近、ある雑誌をみていたら、なんとあの国際プロレスが今脚光を浴びているらしい。ご存知ない方も多かろうと思うが、馬場の全日本プロレス、猪木の新日本プロレスに次ぐ、第三のプロレス団体が国際プロレスであった。70年代から80年代は、この三つの団体でプロレスが興業されていたわけだ。

そして、一番人気がなかったのが国際プロレスだった。当然、他の団体よりも安い料金で観れたから、小遣いの少ない私ら子供にはありがたい存在だった。人気がなかったのは、華のある人気日本人レスラーがいなかったからで、招聘されてた外人レスラーはけっこう質が高かった。

バーン・ガニアやビル・ロビンソンなど、玄人好みの渋いレスラーが少なくなかった。一方、マッドドック・バションやジプシー・ジョーなどのラフ・ファイターも来ていて、なかなかに見応えがあったと思う。

一際私の記憶に深く刻まれていたのが、このバションとジプシー・ジョーの殴り合いだった。後にも先にもこれほどの殴り合いを見たのは空前絶後であった。日本のプロレス史でも屈指の名勝負だったと思う。

マッドドック(狂犬)バションは、一回り大きな弟のブッチャー・バションとタッグを組んでいたが、強いのは2メートル近い巨漢であった弟より、この兄貴だった。とにかく気が強く、喧嘩巧者でもあった。はげ頭と髭面が印象的な中年男性だったが、間違っても喧嘩など売りたくない、怖いおっちゃんだった。

一方、ジプシー・ジョーは平服でいたら、一般人と見間違うような普通のおっちゃんだった。ジプシーのリングネームに相応しく浅黒いラテン系の顔つきだったが、上野のアメ横で露天商でもやっててもおかしくない風情で、地味なレスラーだった。ところが、このジプシー・ジョーは異常にタフだった。椅子で殴られても、その椅子が壊れ本人はケロっとしている。絶対に黄色人種にはありえない肉厚な体つきは、やはりプロレスラーであった。

なんで、この二人が本気で殴り合いを始めたのか、観客には分らなかったが、その迫力は尋常ではなかった。止めようとする他のレスラーが、怯えてしまうほどの殴り合いだった。もちろん、プロレスの殴り合いだ。決して急所は殴らない。わざわざ打たれ強い場所を選んで殴っていたようだが、その殴り方が怖かった。多分、意地の張り合いのようなものだったのだと思う。

右腕を大きく振りかぶって拳を叩きつけるバション。その拳を顔面で受けて踏ん張るジプシー・ジョー。ふらつきながらも受けきったジプシー・ジョーが低い姿勢からのアッパーを放つ。それを身体を固めて受けるバション。全力で殴り、それを全力で受け止める殴り合い。唖然呆然、でも見ているこちらも、拳を握り締めて見入ってしまった。

試合の結末は覚えていない。国際プロレスの若手や中堅レスラーと外人レスラーまで総動員されて、二人を分けようと大混乱状態だったと思う。

八百長なんて言葉が裸足で逃げ出すほどの迫力、それが本当のプロレスだった。真剣に演じられる試合の醍醐味を教えてくれたのがプロレスだったと思う。

どうやら、国際プロレスの昔の試合がDVDで売られているらしい。探してみるかな?
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「私物国家」 広瀬 隆

2007-04-19 09:38:31 | 
惜しいと思う。偏りすぎた思い入れが、かえって信憑性を損なっている。

表題の作品の著者は、反・原発で知られた人だ。反・自衛隊でも知られている。私からすると、強烈な平和原理主義者だと思う。よく調べ上げたこの本も、その偏った政治傾向ゆえに、全面的には受け入れられない。トンデモ本との非難も相応ではないかとも思える。

それでも惜しいと思うのは、日本の権力者たちが嫌がる部分をよく調べているからだ。

日本の権力構造を考えてみると、第一に霞ヶ関の高級官僚(いわゆるキャリア官僚ですね)たちがいる。第二に永田町の国会議員たちがいて、それを支える第三の存在として財界の存在がある。

しかし、この三者だけでは十分ではない。後二つあると思う。一つは退職したキャリア官僚たちを受け入れる公益法人等の存在だ。もっと言えば、天下り先を決める大物の退職キャリア官僚たちの存在である。この裏の存在抜きにして、日本の政治は語れない。広瀬のこの指摘は正しい。

そして、ここからが広瀬の独壇場。権力者たちが最も指摘されたくない部分である「閨閥」だ。要するに婚姻関係で結ばれた権力者たちの関係図。これが実によく調べられている。新聞やTVが、知っていながら、決して報じない部分でもある。

私がこの存在に気が付いたのは、長期信用銀行の破綻処理の不透明さを調べた時だった。あまりに不可解な外資への売却と、その後の新生銀行の存在に疑問を感じずにはいられなかった。この破綻処理に関わったとされる司法関係者の話と、一部のアングラ関係のマスコミの記事がなかったら気がつけなかったと思う。

長銀の天皇と謳われた故・杉浦会長と宮沢・元大蔵大臣との姻戚関係。財務省主導で行われた長銀の破綻処理と、その後の金融監督庁での不可解な自殺続発。以前、このブログでも書いたことなので、これ以上は省きますが、表に出なかった何らかの動きなくして、あのような不透明な破綻処理はありえないと断言できます。

姻戚関係は、無視するにはあまりに強すぎる要因なのです。公私の別は当然なのでしょうが、それでも誰が喜んで血縁関係にある親族に不利な処理をするでしょうか。霞ヶ関のキャリア官僚たちと政界、財界との姻戚関係の深まりを追及した著者・広瀬の執念はたいしたものだと思います。

残念ながら、広瀬氏の偏った政治的姿勢がこの本の信憑性を損なっていますが、彼が調べ上げた姻戚関係こそは、大手のマスコミは知ってても、決して書かない裏の関係だと思います。この部分を調べ上げ追及できるマスコミが、もし居るならば「ロッキード事件」や「リクルート事件」を遥かに上回るスキャンダルとなることは確実でしょう。それには内通者の存在が必要不可欠だと思います。

ただし、内通者の命の保証はしかねます。新聞の片隅にそっと記載される若手のキャリア官僚の自殺記事。なぜ彼らは自殺しなければならなかったのか?私が知る範囲では、若手ほど理想に燃え、正義感に燃え、日本の将来を真剣に憂う真面目な役人であることが多いのです。厳しい出世競争の成果が出て、行き先が見える頃には、これらのキャリア官僚は決して自殺などしません。退職後の人生を考えたら、なにをしていいか、してはいけないかが分ってくるのでしょう。

私とて、ほんの一部を知るに過ぎません。多分、私の知り得ない事情があるのでしょうが、それでも推測できる一部の真相だけでも、日本の将来を悲観したくなるのに十分です。「美しい日本」なんて、どこの国の話かと吐き捨てたくなるのです。

日本にはいいところだってあるのですから、なるべくそちらを見つけるようにしたいものです。
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「猟人日記」 ツルゲーネフ

2007-04-18 09:30:55 | 
野山で朽ち果てたいと夢見たことがある。

20代前半、病気は治る気配すらみえなかった。副作用の強烈な薬を多量に服用すれば、病状を抑えることは出来た。ところが薬を減らすと、たちまちに悪化する。いろんな薬を試したが、どれも大して効果はなく、毎日薬を多量に飲み、後は寝るだけの毎日。

いい加減、嫌気がさした。

ベットの上で寝転びながら、病院を抜け出して、野山で朽ち果てることを夢見るようになったのは、その頃だと思う。

なるべくなら、緑の濃い山林がいい。多少、湿気がこもり、薄暗い山林が望ましいと考え、候補地を探していた。西丹沢がいいかな?いや都民なのだから奥多摩の知られていない渓谷がいいかも。

勘違いされては困るが、自然は人間に優しくない。山は、人が生きる努力をしなければ、そこで生きることさえ許してはくれない。だからこそ、山は私に生きる実感を与えてくれた。水を求めて、谷あいを400メートル降り、ようやく探しえた清流から2日分の水を汲み、テントに戻るだけで4時間。その水を頼りに数日間、路なき原生林を彷徨い、ようやく人里に戻れた時の安堵感。

子連れのヒグマがうろつく石狩の山稜を通り抜けた3日間。朝、テントのそば3メートルに巨大なヒグマの糞が湯気を立てていたのには、心底驚いた。日が高く上るまで、テントを出る気になれなかった。ようやく昼なお暗い鞍部を抜けた時は、心底助かったと嘆じたものだ。

人間なんて、大自然の猛威の前には、か細いロウソクの灯火程度の存在であることを何度も思い知らされた。

どうせ倒れるなら、病にではなく、自然に打ち倒されたかった。凍死でもいいし、墜落死でもいい。屍は草木に埋もれ、分解され、土に還る。そんな死に方がいいと考えていた。

弱い奴は死んでも仕方ない、逞しい奴だけが生き残る。それが自然ってものだと思っていた。何時頃から、このような考え方をするようになったのか定かではないが、影響を受けた本の一つが表題の本であることは間違いない。

今日、ロシア文学に関心を持つ人は少ないと思うが、読むに値するだけの価値はあると思う。虐げられた農奴たちの暮らしぶりを描いたこの作品は、ロシア革命に火を点したと評されたこともある。美しくも厳しいロシアの大地と、そこで生きる人々の逞しさに強く感銘を受けた中学生が私でした。

厚かましいことに、病状が安定して、情けない身体ながらも生きていけることが分ると、野に果てる空想は消え去りました。現金というか、本質的に楽天家なのでしょうね、あたしゃ。
コメント (2)
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倒壊した遊具に思う

2007-04-17 09:34:04 | 社会・政治・一般
週末、風邪を引いたため、のんびり自宅で過ごしていたら、小学校の遊具が倒壊して、子供が怪我をしたとのニュースがあった。

どうも安全点検に手抜かりがあったようだが、TVを見ていて少し気になった。遊具自体は、地面に立てた木の柱の間にロープを三本張ってあるだけの単純なものだ。木の柱の根元に車の廃タイヤを積み重ねて、登りやすくしてある。大人気の遊具であったらしい。正直、私が子供だったら、絶対に遊びたい遊具だ。

どうも、このタイヤの部分に水が貯まり(当然だ)、それが木を腐食させて、今回の倒壊に至ったらしい。

TVで大人たちが、安全点検の手抜かりなどを非難していた。一方、その遊具で遊んだ経験のある子供たちが平然と「沢山でロープにぶら下がると、木がギシギシいってた」と楽しげに思い返していた。遊んでいた子供達のなかには、その危険性に気が付いた子がいたらしい。少し安堵した。

絶対安全な遊具なんてないと思うし、安全すぎる遊具はつまらないものだ。子を持つ親には、とんでもない暴論だと思うが、子供は遊びのなかで危ない経験を是非ともするべきだ。大人になってからでは遅いと思う。身体が柔らかく、怪我をしても治りの早い子供の時分こそ、危ない遊びをする絶好の機会なのだと確信しているからだ。

危ない思い、痛い思いは経験しなければ分らないものだ。何が危ないのか、何をしたら痛いのか、大人が教えるだけでは足りない。子供が自ら見て、やってみて、感じて判断する経験が是非とも必要だと思う。教えられただけでは、身に付かないし、何より危険回避能力が育たない。

自宅の近くには公園がいくつもあるが、見ていると最近の子供は木登りが下手だ。転ぶのも下手だと思う。無理ないと思う。私が子供の頃あったはずの、ちょっと危ない遊具が一つもない。全て数年前に撤去され、保育園の幼児が遊ぶような遊具がデンと置いてあるだけだ。

子供に危ない経験をさせないことが、良い教育だと考えているのだろうか。だとしたら大間違いだと思う。危ない目に遭った時、適切に対処できるようにするのも教育だと思う。これは大人になってからでは、まず身に付かない。危機回避能力は、たいがいが子供の頃遊びのなかで、身につくものだからだ。

子供の頃、危ない経験をしたことのない大人は、危機回避能力が著しく劣る。何が危ないか、どうしたら回避できるかの経験がないから、むやみに怖がるか、無神経になるかのどちらかだと思う。

ゆとり教育と称して、子供の学力を低下させたり、安全を重視するあまりに子供の危険回避能力を損なうような教育は止めて欲しいものだ。
コメント (6)
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