ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

死がふたりを分かつまで DOUBLEーS

2014-12-15 12:06:00 | 

最初に書いておくと、ラブ・ロマンスものではありません。

それどころか苛烈な死闘と残虐な争いが、壮絶なほどに繰り返し描かれる漫画です。ただ、タイトルがあまりに悲恋ものを想起させるので、勘違いして手に取る人が少なくないのも無理はない。

実際、私自身、今さら悲恋ものなんて読みたくないと思い込んで、長いこと手を出さなかったくらいですから。そして、読んでみて本気で後悔したのです。

もっと早くに読んでおけば良かった、と。

的中率9割という予知能力を持つヒロインが、自ら護衛役に選んだ主人公に対して「死がふたりを分かつまで守ってください」と頼んだことがタイトルの由来となる。

この非常識にして奇天烈な依頼を受ける主人公もまた異常で特異な人物だ。古流剣術を収めた剣の達人であり、失った視力をハイテク機器で補った半盲の戦士でもある。当然にして社会不適合者であり、常識の通じる人間でもない。

彼が所属する組織は、非合法の自警団である。犯罪被害者やその家族が立ち上げたネット上の組織であり、主人公はその実行部隊の一員である。だが、予知能力を持つヒロインを助けたがゆえに、暴力団や国際的テロ組織からも狙われる羽目に陥る。

透明なブーメランを駆使する暗殺者や、最新鋭のハイテク兵器を用いる傭兵集団を相手に回して、主人公の古流剣術が如何に立ち向かうか、私は毎回興味津々で読み続けている。

ただ、掲載誌がヤング・ガンガンというマイナーな漫画雑誌なので、あまり知られていないのが悔しい。漫画喫茶ででも見かけたら、是非手に取ってもらいたいと思います。

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襲撃!異星からの侵入者 ディビット・ファインタック

2014-12-12 12:56:00 | 

私の部屋の片隅にある未読の本の山の中で、一番の古株が表題の書である。

購入したのは、かれこれ4年ぐらい前なのだが、つい先日まで未読山脈の麓に眠っていた。決して嫌いではないのだが、読むのを躊躇っていたのには訳がある。

まず、上下二巻で1400頁に及ぶ大作であること。そして読み出したら止まらない魅力があること。これでは、他の本を読めなくなるではないか。

これだけではない。主人公たるシーフォートは、私の知る限り、これほど頑固で一徹で、反省癖があり、敬虔でありながら、断固たる行動派のヒーローであり、それでいて自らをヒーローとは認めない、もの凄い変わり種なのだ。

頑迷に過ぎるほどの自虐癖があり、それでいて自らが正しいと信じた道には、迷わずに邁進する実践の人でもある。自省、自立、自主を絵にしたような、他に類をみない変人ヒーロー、それが銀河の荒鷲ことシーフォートである。白状すると、積極的に読みたいヒーローではない。

それでも不思議なことに本国アメリカでも、けっこう人気がある。率直に言って現在のアメリカ人の思い浮かぶヒーロー像からは、相当にかけ離れているように思う。少なくとも、ワシントンやNYではお目にかかれないタイプだとさえ思う。

シーフォートの清廉潔白さは、かつてアメリカに入植したピューリタン的な価値観を色濃く反映している。それは、現在のアメリカでは、もはや希少価値といっていいほど稀な存在だと思う。

だからこそ人気があるように思える。かつては気鋭の青年士官候補生であったシーフォートも、今や老齢に近く、痛々しいほどの衰えが目立つが、変わらないのは、その厳しすぎるほどの自省、自立、自首の精神だ。

もっとも、今回の主役はかつてシーフォートのもとで悲劇の死を迎えたデレク・カーの息子である。もちろんシーフォートも活躍するが、この息子の迷走と愚行と直情が、若かりし頃のシーフォートを思い起こさせて、それが非常に楽しい。

多分、幾つかの理由からハリウッドが映画化することはないように思う。それほど現在のアメリカの価値観とは遠く離れた存在である。しかし、それを好ましく思うアメリカ人が少なからずいるのも確か。

私が知る限り、アメリカ以外ではありえず、そのアメリカでも希少なヒーロー、それがシーフォート。興味がありましたら是非どうぞ。長編ばかりなので大変ですけど、読みがいはありますよ。

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一ドル120円台に思うこと

2014-12-11 14:11:00 | 経済・金融・税制

忘れた頃にやってきたのが円安だ。

日本円が対ドル相場で7年ぶりに120円台を付けた。本当に久しぶりの円安水準なので、輸出入関連の企業は対応に苦慮している。

改めて確認するが、通貨の価値を為替という基準で測るならば、その通貨の発行国の経済力を中心とした国力を反映したものとなるはずだ。その意味で、現在の日本の景気の低迷を受けた評価額である。

しかし、私に言わせると、いささか遅すぎた評価でもある。もともとは4年前のリーマン・ショックの際に生じた莫大な損失を穴埋めするため、ドルもユーロも大幅に通貨供給量を増やしたことが契機であった。

ドルとユーロが大幅に増刷している以上、日本も通貨供給量を増やすべきであった。しかし、当時の白川・日銀総裁は頑として応じなかった。インフレ恐撫ヌが根底にある日銀は、我が国においてはリーマン・ショックの影響は少ないとし、断固通貨発行量の増加を拒否した。

結果、相対的に円の価値は上がり、一時は一ドル80円台と急激な円高となる始末であった。これは日本の経済力に応じた為替相場ではなく、あくまで通貨発行量の相対的差異による歪んだものであった。

困ったことにリーマン・ショックの悪影響は、我が日本においても相当なものであったが、それが分散された金融商品のなかに埋もれていた為に、なかなか表面化しなかった。

その典型例が、膨大な売り上げを記録した投資信託であるグローバル・ソブリンである。国外への分散投資を売りにしていたこのグロ・ソブにとって、リーマン・ショックの影響は相当なものであった。

高配当を謳い文句にしていたが、リーマン・ショック以降それを維持することは不可能となった。そこで止む無く元本払い戻しにより、高配当が続いているように見せかけざるを得なくなった。

厭らしいことに、この元本払い戻しを特別分配金などと称して配当したため、元本割れの実態は紙面上に隠されてはいたが、投資家の多くは既にその惨状を把握していた。これが投資家心理を冷え込ませた。

日本にとって不幸なことに、当時は民主党政権であり、この善人ぶりっ子の独善押し付け政治家と、霞が関出身のお役所ご用達政治家との連合政党は、この投資家心理に気が付かず、また白川・日銀への指導力にも欠けた。

そのため、不当な円高水準が維持されることとなった。それが安倍・自公連立政権となり、黒田新日銀総裁のもとで大幅な通貨供給量増加により、3年遅れて欧米とのバランス調整が可能となり、円の為替水準は日本経済の実態に相応しいものとなった。

これが今の円安の正体である。

だが、不自然に円高が維持されていたため、日本企業はこの急激な変化に十分対応しきれていない。輸出企業には恩恵である円安だが、既に円高に対応するための海外への進出、移転を済ませているため、円安の効果はそれほど多くない。

また原発を停止しているため、火力発電のための重油、天然ガスの輸入が増大していることが、大幅な円安による日本の経常収支を悪化させもしていた。今年に入り輸出の増大により、経常収支は改善されたようだが、国内経済はまだ低迷が続いている。

今年4月の消費税増税の影響は収まったとニュースは伝えるが、私は信用していない。むしろこれからが本番なのだ。なぜなら、消費税の納税義務者である法人や個人事業者の消費税申告は、来年以降であり、売上が前年並みでも納付すべき消費税は3割以上アップしてのものとなる。

大企業はともかくも、中小企業や零細事業者には相当な税負担となる。現在、大手町の国税庁の一階には、税金を滞納した納税者との相談室が設置されている。私も滞納した顧客に同行して、滞納税金の納付について相談に同席したが、どうみても過半が消費税の滞納であったようなのだ。

来年以降、消費税の滞納はさらに増えると、私は予測している。円安は、日本経済が完全に復調にならない限り、当面続くと考えられる。ただ、120円台はいささか円安に過ぎる気もする。

ただ、海外から投資、観光を呼び込むには、そう悪い数値でもない。変化する環境に応じて経営していかねば、21世紀の日本は生き残れない。安定は停滞であり、不自然な円高水準が維持されたことが、今日の混迷を招く一因であったと私は考えています。

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ダーリンの頭ン中 小栗左多里

2014-12-10 14:48:00 | 

習うより慣れろ、は確かだと思う。

今から十数年前だが、私は仕事の必要上から外国語を片言ながら4か国語程度使わざるを得なかった。福建語と北京官語と英語とタガログ語(フィリピン)なのだが、福建語と北京官語はシナ語なので、三か国語かもしれない。

ただ、この両者は同じシナ人同士でも通じないくらいに異なる言語である。あの頃、歌舞伎町で変なイントネーションの日本語で言い争っている東洋人がいたら、ほぼ間違いなくシナ人だった。

福建と広東なら同じ南方系ということで、ある程度通じていたようだが、北京や大連など北方出身者には外国語同様で、仕方ないので日本語でやりとりしていたらしい。

微笑ましいなどと呑気なことは言ってられない。なにせ、北方系のシナ人と南方系のシナ人では気質がまるで違うため、非常に仲が悪かったのだ。これが後の歌舞伎町の青竜刀事件へと発展することになる。

間接的ながら彼らの飲食店に関わりがあった私は、あれ以降シナ人からみの仕事は一切受けていない。少々残念に思わないでもないが、争いに巻き込まれるのは勘弁である。

一方、英語とタガログ語は外国人ホステスの申告からみで、今でも若干関わっている。守秘義務から多くは書けないが、私の経験からすると英語が母国圏の外人よりも、非英語圏の外国人の話す英語のほうが分かりやすい。

英語と一口に言うが、実際に使われている英語は、世界各国でかなり発音が違う。日本人はやたらと発音を気にするが、正直気にし過ぎだと思う。綺麗な発音に気を配るくらいなら、なんでもいいから喋って、意思を伝えようとする努力のほうが有意義だと思う。

実際、日本にいる外国人は、日本人の英語の発音がヘンなことなんて、ほとんど気にしない。むしろ黙っているほうを嫌がる。私の場合、仕事に関連する英語は限られているので、その範囲でならばなんとかなった。

意味が通じない時は、メモに書いてあげればなんとかなった。っつうか、読み書きならば日本人の英語力は、決して低くないようだ。

ただ、日ごろから外国語に接していないと、すぐにダメになる。年々記憶力が低減している私なんざ、3か月離れると、もう分からなくなる始末だ。特に心臓をやって以来、酒を飲むことを控えるようになったので、外国人ホステスとの意思疎通には難儀している。

だから確定申告の時なんぞ、彼女らに子供を連れてきてもらって通訳してもらうこともある。だいたい、旦那が日本人の場合、その子供は外国語と日本語の両方を使うことが多い。

正直、その国語力には不安を感じないわけではないが、話したり聞き取る能力は、私なんぞよりもはるかに上である。子供だけに税制度や、会計に関してはあまり当てにならないが、そこは書いて分からせる。習うより、慣れろの精神があれば、けっこう何とかなるものだ。

それでも困るのは、微妙な言葉の用法だ。些細なことなのだが、Theを付けるべきか、あるいは過少と過小の違いとか、小さなことが案外と分からないことに出くわすことは多い。

そんな微妙な違いを指摘し、楽しんでいるのが表題の漫画家の配偶者であるトニー氏である。自ら語学おたくと称するように、普通気が付かない言葉の不思議に疑問を呈し、時には楽しみ、奥様に同意を求めるが、奥様である小栗女史は、いささか煙たがっているのがおかしい。

でも、それをネタに漫画にしてしまうところが逞しい。

外国人と接することは、案外とストレスになることも多い。しかし、その擦れ違いを楽しめれば、思いもしなかった側面から、今まで気が付かなかった思わぬ日本に遭遇できる。

まァ、とりあえずは、為せば成るの心意気で楽しみましょう。

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アギーレ監督、八百長疑惑報道に思うこと

2014-12-09 12:33:00 | スポーツ

日本のプロサッカーが成立してから、既に20年近くたっている。

人間でいえば成人年齢であり、かつてワールドカップなんて雲の上の存在で、アジア・レベルでさえ勝ち抜けなかった時代を覚えている私からすると、その成長は嬉しい限り。

しかし、未だにレベルが上がっているとは言い難いのが、日本サッカー協会の幹部であり、マスコミのサッカー報道である。

まず日本サッカー協会だが、ここの幹部たちは未だに社会人クラブと出身大学の学閥から脱却できていないアマチュアばかりである。これまでも不満を抱く反主流派と思しき輩が、あれこれと妙な情報を流してきた。

それがアギーレ現日本代表監督を巡る騒動の根底にある。現在、アギーレ監督はスペインリーグの監督時代の八百長疑惑に曝されている。もちろん当人は断固として八百長への関与を否定している。

すると、おかしな報道が相次いだ。アギーレ監督への事情聴取を日本サッカー協会が執り行うとか、もし八百長に関与が確定したら次の代表監督はピクシーだの、トニーニョ・セレーゾ(鹿島監督)だのと喧しい。

いったいなんの権限があって、まだ疑われているだけのアギーレ監督に対してこのような非礼が出来るのだ。海外での報道だけで、なんの証拠もなく疑い、それを利用しようとするなんざ、下種の勘繰りというか、えげつない。

疑わしきは罰せず、の近代法の概念が理解できていないのだろう。というか、派閥争いの次元で低劣な主導権争いをしているだけで、日本サッカーの未来すらも、ろくに考えての動きでないことは明白である。

この下劣な幹部たちは、日本サッカーが低レベルであった時代に、選手として、また指導者として活躍していた功労者ではある。が、世界のサッカーを目ざすという高次元な志よりも、自らの派閥人事、利権争いに奔走しているのが実態である。

サッカー選手として、また指導者としてレベルが低いのは致し方ないが、人としての品性まで貶めてどうする。

そして、その下劣な幹部たちの甘言に乗せられて、賢しげな報道をするマスコミにも呆れてものがいえない。大方、日本サッカー協会の記者クラブに巣食うサッカー知らずのベテラン記者だろう。

日本サッカーは、長年にわたり高校サッカーと大学サッカー、そして社会人サッカーといった学閥、企業閥が横行する風土があったのは否定できない事実だ。そして、マスコミにはこの学閥、企業閥に食い込むことが記者の務めだと信じている人が多い。

学閥、企業閥の人脈を通じての取材をいけないとは言わないが、この記者たちは概ねサッカーに疎いことが多い。若い記者はともかく、ベテランの大半は野球界育ちであったりする畑違いが少なくない。

ご存じのとおり、日本のプロ野球界では、高校野球、大学野球、そして社会人野球が選手、指導者の供給先となってきた。当然に学閥、企業閥にコネがある記者が取材に有利な世界であった。

その流れは、サッカー界でも変わらず、サッカーに詳しい記者よりも学閥、企業閥に人脈がある記者が幅を利かしている。おかげで、サッカーに関する記事には、とんでもない間抜けな記事が少なくない。

日本サッカー協会と、マスコミの報道が低次元であることが、日本のサッカーの進展を妨げる障壁になっていることを私は確信しています。

コメント (2)
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