村上春樹はタブーなのか?
作家としては、現代日本文学を代表する人であり、世界的にも著名である。その文章は心にそよぐ風であり、繊細にして華麗な物語は、日本のみならず世界にも通じるものだと私は評価している。
しかしながら、敢えて言うが、村上春樹の政治センス、歴史感覚は痴呆の域に達していると。
第二次世界大戦の敗戦国である日本が、戦後戦勝国である米軍の指示のもと、卑屈で自虐的な教育を日本国民に間接的に強要し、二度とアメリカに戦争を仕掛けない様に画策してきた。
それに便乗してきたのが、戦後雨後の竹の子の如くに沸き出でた憲法9条信者であり、戦争拒絶症患者であり、平和真理教徒である。もちろん敗戦を反省することは必要だ。しかし、謝罪は反省のポーズに過ぎず、断言するが平和を守るためには無意味というよりも有害でさえある。
有史以来、数多の戦争が行われてきたが、敗戦国が戦勝国に謝罪するなんて愚行が、その後の平和に役立ったことなんてない。むしろワイマール憲法のもとで平和を志向していたはずのドイツが、臥薪嘗胆で耐えて、ため込んだ怨念がナチスを生み出したように、新たなる火種になるほうが普通である。
その謝罪を相手が納得するまでするべきだと言っているのが、村上春樹という大馬鹿者である。日本はシナの共産党に負けた訳でもなく、ましてやコリアは日本兵として戦った同じ敗戦国である。従軍慰安婦などというねつ造されたコリアン・ファンタジーに頭を下げることは、むしろ有害でさえある。
しかし、この日本の大作家様に対する新聞やTVという大マスコミ様は寛容というか、触らぬ神に祟りなしといわんばかりに態度で済ませている。海外でマリファナパーティーに参加していた痴態写真が出回った時も、まったく無視である。
ただ、まァ、冷静に考えれば営利企業である大マスコミ様は、村上から版権引き揚げなんて言われたら編集長の首どころか、経営陣の席でさえふっとびかねない。売れっ子作家様が増長するのも無理はない。
結果、村上春樹を堂々批判できるのは、村上とは無縁の中小マスコミに限られ、当然世間の耳目を集めることはない。まったくもって、日ごろ言論の自由を高らかに謳い上げる大マスコミ様のご都合主義には呆れてものが言えない。
もっとも、これで村上作品がシナやコリアで今まで以上に売れることは間違いない。商売人としての村上春樹は案外と強かなのかもしれませんがね。
外れて欲しい予測だが、当たる可能性は高い。
おそらく、近いうちにシナの北京政府は、日本に対して強圧的な外交威嚇をしてくると私は予測している。根拠は簡単で、現在シナ政府内部で熾烈な権力争いがされているからだ。
報道によると、前政権の下で人民解放軍の最高位にいた郭伯雄が事実上、権力の座から引き下ろされ、その親族を含めて習政権から汚職と腐敗を訴追されそうなのである。
郭氏は、江沢民とも近いとされていた人物であり、今までは如何に贈収賄の噂が出ようと、決して表ざたにはならなかった。しかし、表向き腐敗撲滅を目指す習政権のもとで、遂にやり玉に挙げられてしまった。
面子を重んじるシナ人にとっては、死にも勝る屈辱であり、胡・前主席も江沢民も人ごとと思うはずもなく、当然に自分たちに対する戦いだと理解しているはずだ。
シナの北京政権にとって、人民解放軍と共産党は表裏一体のものであり、そのトップにいた人物を権力の座から引きづり降ろし、面子を丸潰しにすることの意味は極めて大きい。
そして忘れてはならないのは、彼らはシナ人であることだ。シナ人の政府で苛烈な権力闘争があるときは、決まって対外的に勇ましい姿勢を取りたがるのが、今までの通例である。いや、今までどころか、歴史的にみても当然のことである。
軍の権力構造そのものをガタガタにする以上、戦争という選択肢は取りずらいだろうが、国民の目をそらすためにも今の政府は強固であることを示さねばならない。その最適のターゲットは、言うまでもなく日本である。
アメリカやロシアに対する強硬姿勢は、国防上危険が高いが、平和馬鹿が政府の脚を引っ張る日本ならば大丈夫。いくらでも高圧的な姿勢をとれる。
嫌な予測だが、近々シナは日本政府を困らせるような外交攻勢に出てくると私は考えています。実害は少ないでしょうが、平和憲法で平和が守れるなんて錯覚している日本のおバカなマスコミ様が、どのように反応するかが楽しみです。不健全な楽しみ方だとは思いますがね。
日頃、ギャンブルとは縁遠いのだが、時々ええィ、なんとでもなれと気まぐれを起こす。
あの日は、天気は変だし、混まないはずの道は渋滞するし、妙な一日だった。こんな時はきまぐれを起こすのが相応しいと思っている。
だから、まったく予定はしていなかったが、映画館に飛び込んだ。実のところ、観たいと思う映画は皆無であった。それは、その日の予定表を観る前から分かっていた。
ただ、こんな時こそ日頃見るはずのない映画を観るのもいいではないかと、きまぐれを起こし、まったく予備知識なしで観たのが表題の映画であった。ぶっちゃけ、夜8時過ぎであったので、上映に間にあうのがこれだけだったからでもある。
正直に云えば、失敗したなァ~と思った。
オープニングの歌と踊りに戸惑い、作中のプラトニックな恋愛場面に困惑した。私はなんとなく、伝奇怪異譚だと思っていたのだが、どうも少し違うらしい。ただ、今どきの若者はこんなアニメに惹かれるらしいことは、良く分かった。
映画を半分も観ないうちに、私はなんとなく気が付いてしまった。これは漫画が原作ではなく、小説おそらくライトノベルが原作のアニメ化であろうことに。後日調べたら、やはり原作はライトノベルであった。
実は今、悩んでいる。なぜに私はこの映画を観ていた時、これを漫画のアニメ化ではなく、小説のアニメ化だと考えたのか。その理由、根拠が分からない。まったく知らない作品であり、漫画も小説も読んだことはない。
当然に原作者も作画者も知らないというか、読んだことは全くない。だが、間違いなく私はこれを小説のアニメ化だと確信していた。なぜだろう?それが分からない。漫画のアニメ化と、小説のアニメ化に違いがあるのか。それすらも分からない。
多分、アニメチックなイラストが特徴のライトノベルを先に読んでいたならば、このような悩みは生じなかったと思う。この場合は文章を読んだ印象と、その挿絵のイメージが一致してしまうからだ。
だが、私はそこはかとなく、この映画から作画とストーリーに僅かな、ほんの僅かな差異を感じた。だからこのアニメ映画を小説の映像化だと感じたのではないかと思う。
イラストのないライトノベルは、現在ではまずない。だから多くのラノベの読者は、文章のイメージ化にイラストから大きな影響を受けている。だが、この作品をいきなりアニメ映画から知ってしまった私の場合、ストーリーと映像に微かな違和感を感じたのではないか。
でも、まだ納得しかねるところもある。これはやはり原作を読んでみるしかないかもしれない。ライトノベルでなければ、すぐにでも読みだすのですが、どうもあの手のイラスト画は苦手だ。カバーを外した投げ売りの古本でも探してみましょうかね。
先週のことだが、天皇皇后両陛下が南洋のパラオ諸島へ赴き戦没者慰霊をされた。
それに対する各新聞やTVの報道が滑稽だ。天皇が戦没者を慰霊すると、それは平和への祈りとして報じる。一方、安倍首相が戦没者を慰霊すると、それは戦争への道だと弾劾する。
ちなみに小泉・元総理の時も同様に非難したが、この変人は泰然と無視した。一方、第一次安倍政権の時は、そこまで安倍首相(当時)は厚顔になれなかったのか、ストレスから潰瘍性大腸炎を悪化させて結果的に退陣している。
おかしいのは民主党政権下で戦後最悪の首相として名を刻みそうな管首相(当時)が、硫黄島にて戦没者慰霊をした時だ。驚くほど控えめな報道で、淡々と伝えるだけでマスコミ様は済ませている。
私には、どうみても客観的で公平な報道には思えない。
みんな、内心はどうであれ、公的には戦地で亡くなった戦没者を慰霊する事実に変わりはない。しかし、それを誰が行ったかで、日本のマスコミ様はずいぶんと報道の仕方を変えている。
二律背反というか、自己矛盾を感じないのが不思議で仕方ない。
まァ、私の本音を言えば、マスコミ風情が客観的で公平な報道なんざ出来る訳がない、に尽きる。ところが、どういう訳か、日本ではマスコミ様は客観的で公平な報道をしていると思い込んでいる人が多い。
建前と本音の乖離が著しいのは、日本人の特徴だそうだが、それでいいのかと私は思う。民主主義社会においては、報道の在り方が選挙に大きな影響を与える以上、その報道には一定の信頼が求められるはずだ。
はたして、日本のマスコミはその役割を十分に果たしていると云えるのか。私にはそう思えないのですがね。
悪く云えばリサイクル商法。
でも面白いから許す、許すけど、内容分かっているから多分買わない。きっと漫画喫茶で済ませると思う。
初めて原作を読んだのは、今から20年以上昔のことだ。非常に面白かったことは今も鮮明に覚えている。逃亡中のアルスラーン王子が王宮から追放された智者ナルサスを説得する場面などは、何度読み返しても楽しい。
第一部が終わり、次の第二部が待ち遠しくて仕方がなかった。しかし、この頃から田中芳樹は、シナの古典文学の現代語版に乗り出し、資料地獄にはまったようだ。そのせいか、この「アルスラーン戦記」を始め「タイタニア」「地球儀シリーズ」などが長期にわたり中断されてしまった。
「銀河英雄伝説」という大ヒットで作家として成功したことが、作家としての評価を低めてしまったのは、田中自身の責任ではない。日本の文壇界は、未だに男女がメソメソと別れ話を修辞するのをありがたがり、社会の矛盾に引き裂かれ、押しつぶされる人間を描くことこそ文学だと思い込んでいる。
私は「銀英伝」を始めとした初期のエンターテイメント作品を高く評価しているが、それは作家・田中芳樹にとって不幸であったように思えて仕方なかった。だが、「隋唐史演戯」「海嘯」などの古代から中世のシナの物語の現代語訳で成功したことで、作家としてようやく高い評価を得たのは祝してもいい。
しかし、当初の成功とその熱烈なファンを置き去りにした罪は重い。私は最近刊行された「タイタニア」の新刊を買うのを躊躇っている。あまりに長すぎた中断は、読者に対する裏切りとしか思えないからだ。
そうこうしているうちに、かつての若いファンたちは年を取り、あまりに遅筆な田中を見限り始め出した。そして、本来、若い読者に受けるはずの初期のエンターテイメント作品さえ、忘れ去られたものとなった。
実際、現在書店の売れ行きランキングの上位の常連であるライトノベルの読者たちで、田中芳樹の作品を読んだことがない人は珍しくない。かつて小説・田中学校とまで云われ、田中作品の愛読者たちがライトノベルの作家デビューを果たしていたことを想えば、この惨状は本が売れない惨状に悩む出版社にとっては忸怩たる思いがあったのだろう。
だからこそ、新たな読者層の開拓のため、敢えて古い田中作品を掘り起こしてきたのだろう。描き手は「鋼の錬金術師」「銀の匙」で知られた荒川弘だ。原作が面白く、作画者の力量も十分なら売れないはずはない。事実、先週末からアニメ作品が放送されだしている。
多分、けっこう売れると思う。でも、私は当面手を出さない。まだまだ中断状態の作品は他にもある。これらが無事完結したら読んでやる。裏切られた、かつての愛読者の恨みは深いんだぞ。