自他ともに認めるお洒落音痴の私でも、偶にはファッションに文句を言いたくなることもある。
それが薄手のダウンジャケットである。良くは知らないが、ユニクロがよく宣伝しているあれである。
別に誰が何を着ようと、それは当人の自由だと思う。私自身、そう考えて、適当に服を着ている。だから、本来、ファッションに文句なんて言いたくない。
でも、あの薄手のダウンジャケットをアウターに着るのは、如何なものかと思っている。
ダウンジャケット、いわゆる羽毛服である。保温性の高い水鳥の羽毛を使ったコートである。元々は寒冷地で羽毛を使った外套などがあったようだが、ナイロン生地をつかってキルト状の袋の中に、フェザーダウンを詰めて保温性を高めたジャケットを販売したのはエディー・バウアーである。
アメリカでは1936年に売り出された。当初は釣り人用であったのだが、極寒の地でも暖かいこと、しかも非常に軽いことからアウトドア―用として、特に高地登山で活用されるようになったのは戦後のことだ。
日本ではマナスル登頂を機に、ダウンジャケットの有用性が認められたのだが、当時は外貨規制もあり、海外渡航しなければ入手できなかったと記憶している。もっとも物真似の上手い日本だけに、羽毛ではなく綿毛を詰めた疑似ダウンジャケットなどが上野のアメ横あたりで売られていたようだ。
ちなみに私は高校生の頃、丁度1970年代後半にダウンジャケットの存在を知ったが、当時は高額で手が出なかった。だが、急速な円高により、個人輸入で購入が可能となった。でも貧乏学生にはまだ高かった。
その頃、友人に勧められて羽毛寝袋を格安で購入した。安いだけに、本物のフェザーダウンではなく、アヒルかなにかの羽毛を使った疑似製品であった。それでも、綿毛や化繊の寝袋よりは暖かかった。
その後、水道橋の老舗の登山具店で、2万程度のダウンジャケットを購入したのが、最初の本物のフェザーダウンであった。これでも、かなりの格安製品であるのだが、暖かさは桁外れであった。
ただ残念なことに縫製技術は稚拙であり、アメリカ直輸入のエディバウアーやリ―コープなどに比べると劣るのは明白であった。それが1980年ごろであったと記憶している。
この頃からダウンジャケットは若者の間にお洒落着として流行しだした。多分、発端は雑誌「ポパイ」か「メンズクラブ」あたりだと思う。当時、キャンプなどが流行だし、それに合わせてアウトドア―用の衣服が新機軸として着目された一環であったと思う。
その後、特に85年のプラザ合意後の急激な円高は、高価格であったダウンジャケットを日本に広める契機となったようだ。もっとも私自身は、その後難病により長期にわたり療養生活に入り、アウトドア―に縁遠くなってしまった。
やがて社会復帰してからも、身体の弱さからアウトドアーから遠ざかるようになったのだが、私が一番驚いたのは、ダウンジャケットが当たり前のように冬の定番服となっていたことだ。
私が初めて着た頃は、クラスの女の子から「その服、モコモコしているけど、何なの?」と訝られたことを思うと、つくづく時代は変わったものだと思う。まァ、それはそれで構わない。
ところで、冒頭に書いたが私はあの薄手のダウンジャケットの着こなしが気に食わない。
ダウンジャケットが暖かいのは、その中に詰められた羽毛が、暖かい空気を保持する能力があるからだ。その暖かい空気だが、それを作り出すのは着ている人間自身の体温である。
厚手のダウンジャケットは良いのだが、問題は今流行の薄着のダウンジャケットである。厚手には理由がある。初期のナイロン生地は、すぐに堅牢性に欠けるので、丈夫な化繊や綿布、毛織物を使って中の羽毛を守っている。
羽毛は火に弱いだけでなく、風にも弱い。アウターとして着てしまうと、風に暖かい空気を奪われて、保温効果は格段に低下する。だからこそ厚手の生地で、羽毛を守っている。ただし、重くなるので登山向けには問題がある。
一方、薄手のダウンジャケットは、その薄さゆえに外気に対して保温性が低い。私が山を登っていた頃は、薄手のダウンジャケットは下着の上に着ることを薦められたものだ。その上に防風着を羽織れば、保温性は格段に上がるし、重さの面でも軽量化が可能となる。
しかし、現在の街での着こなしは、アウターとして堂々と受け入れられている。下界でのことなので、別にどんな奇抜な着こなしでも構わないと思うのだけど、羽毛服本来の機能を損ねているのも事実。
かつて羽毛服に憧れた貧乏高校生の頃の想いがあるので、私けっこう拘っています。
日本史最大の謎とされるのが「本能寺の変」である。
なぜ明智光秀は裏切ったのか?
今日でも新説が出てくるほど、謎の多い反逆事件であった。結果から犯人あるいは謀略者を挙げるならば、織田家から権力を奪った豊臣秀吉と、最終的に戦国の世を終わらせた徳川家康の二人が出てくるのは致し方ない。
この二人が、信長の死の恩恵を最大限に受け取ったことは明らかであるから、陰謀を疑われても仕方ないとは思う。
だが、私は陰謀説を採用しない。やはり光秀が一発逆転を狙った単独での反逆であったと思う。そう考えるのは、秀吉の中国大返しは陰謀では不可能だと思うからだ。
本能寺の変が起きた時、秀吉は西国攻めの大一番である高松城を落とす直前であった。相対するは毛利家を支える両翼、猛将の吉川元春と知将の小早川隆景である。二人とも高知城落城は必然と諦め、秀吉との講和を探っていた最中であった。
先に本能寺の変と、信長の死を知った秀吉は、その死を隠して講和を急ぎ、黒田官兵衛の奨めに乗って、明智との決戦を覚悟した。後背を襲われないためにも、毛利との和睦は絶対必要であった。
だが情報は漏れた。これが何時なのかは微妙なのだが、和睦の直後であったらしい。兄の吉川元春は秀吉に騙されたと怒り、追撃を主張するも小早川隆景は兄を説得して抑えて追撃をさせなかった。
追撃がなかったからこそ、秀吉は短期間で畿内まで戻ることが出来た。あまりに早過ぎる秀吉の襲来に、光秀は権力基盤を固める準備が出来ず、山崎の戦いにおいて敗北し、天下人となり損ねた。
なお、元春は納得はしたが、隆景の言う秀吉の天下を承服できず、翌年引退してしまっている。これは、さすがの隆景も困惑したようだが、兄に頑固さを知っているため説得は諦めたようだ。
ご存じの方もいるだろうが、西国の雄、毛利元就には三人の男子がおり、長男・隆元は先に亡くなっており、二男である吉川元春と三男である小早川隆景と、隆元の子である輝元の三人が毛利家を支えていた。
俗にいう三本の矢なのだが、二人の叔父が優秀すぎて本家の輝元はいささか劣ってみえてしまう。実際、この二人が本家を支えたからこそ、毛利家は戦国の世を生きながらえた。
その最大の功労者が小早川隆景だと私は考える。隆景は信長亡き世を継ぐのは秀吉だと予測し、秀吉の中国大返しを妨害しなかった。秀吉はそのことを強く覚えており、後の豊臣家五大老の一人に隆景を選んでいる。
それどころか、東は家康に、西は隆景に任せれば安心とまで言っているほどである。軍師である官兵衛も、隆景を高く評価しており、その死に際して「彼は賢者であった」と追悼している。
結果からすれば、確かにそうなのだが、本能寺の変の時に、秀吉こそ信長の後継者だと喝破した者が、どれほど居ただろうか。毛利家の追撃がなかったからこそ、秀吉の中国大返しは成功し、山崎の戦いにおいて光秀を破ることに成功している。
もし光秀の反逆において、陰謀説(秀吉にせよ、家康にせよ)が成立するのならば、小早川隆景の異例とも云える追撃中止が謀略に組み込まれていなくてはおかしい。当時の常識からすれば、むしろ兄の吉川元春の主張の方が当たり前だからだ。
しかし、毛利家の存続を第一に考えていた小早川隆景は、次なる権勢者である秀吉に協力するという形をとった。この判断が、毛利家を生き延びさせた。この英断こそ、智者である黒田官兵衛をして賢者だと言わしめる所以だと思うのです。
そんな訳で、やはり本能寺の変は、明智光秀単独の行動であったと私は考えています。
やめられない、止まらない。
このフレーズをみれば、すぐに思い浮かべるのはカルビーのかっぱえびせんである。私が子供の頃からのベストセラー菓子である。
ところで、最近このかっぱえびせんにジャンボ版が出たのをご存じだろうか。通常のかっぱえびせんの三倍の大きさである。
なんちゅーもの、出しくくれたんだ、カルビーは!
ただでさえ、やめられない、とめられない危険な御菓子である。塩分とカロリーの摂取を控えたい私にとって悪魔のウィンクに等しい。
もっともサイズが三倍になっただけで、味が三倍美味くなった訳ではない。でも、食べた時の満足感が半端ない。ちまちま食べるのではなく、豪快に食べられる禁断の愉悦が危険度100%アップである。
今、私が抱える最大の課題は、このジャンボかっぱえびせんを途中で食べ止めることだ。私はわりと自制心の強さには自信があるのだが、こいつは最強、最悪の難敵である。
必死な思いで、なんとか一回につき5個で中断している。断腸の思いで、必死に袋をストッパーで閉じて、湿気防止用の箱に戻している。
警告します。普通のかっぱえびせんを一袋、一気に食べ切るような方は、絶対に手を出すべきではないと思います。
追記 調べたら期間限定商品なようなので、興味がおありでしたらお早めにどうぞ。
簡単に記すと、以下の通り。
目標4万人と設定しました。しかし、結果的に数百人しか合格できず、しかも大半は帰国して、今現在日本に残って活躍しているのは200人程度です。
これが安倍政権の失策の一つです。勘の良い方はもうお分かりでしょうが、少子化による人手不足改善の一環として新たに作られた「特定技能研修実習生」制度の結果がこれなのです。
目標達成率が5%というあまりに明白な失策でした。十分批難に値すると思います。しかし、この既に公表されている結果に対して、野党が安倍政権を批難したとの報道は寡聞にして聞いておりません。新聞やTVが十分に報道している様子もありません。
野党は、マスコミの支援がなければ政権批判ができないのでしょうか。
バカらしいことに、未だに桜がどうだこうだと騒いでいます。どうも野党の議員様の頭の中がよく分かりません。これほど明白な安倍政権の失態を、批難もせず、傍観している愚かさが、私には理解不能です。
少子化と働き手不足に悩む現場の苦労なんて、野党議員様には興味がないようです。まァ、前からそうでしたが、彼ら野党議員は、政権与党の座にあった時でさえ、国民の声に無関心でした。
彼らが民主党時代にやろうとしたのは、霞が関の官僚作成の法案を国会に通すことを除けば、長年有権者からそっぽをむかれていた彼らの願望を実現しようとすることだけでした。
だから民主党政権は、有権者からの支持を失ったのです。
長年、日本を支配してきた自民党政治からの変革を願う国民の声に便乗して、万年野党は民主党政権を立ち上げました。でも、多数の有権者の声は無視して、長年彼らを支持してきた少数の有権者の声ばかり聞いていました。
だから民主党政権は、有権者からの支持を失ったのです。
野党に墜ち、分裂し、党名を変えても、彼らは自分たちの失敗の原因を直視しようとしませんでした。本来、特定技能研修実習生制度は、人手不足に悩む中小企業の救いの手になるはずだったのです。
でも、野党の議員様には中小企業の悩みなんて興味がないのですね。彼らはよく弱者の味方面をしていますが、本音は違うことが良く分かります。
私は安倍政権の外交面での実績を評価していますが、国内政策については失策が多く、とても満足できません。でも、その失策を突くことも出来ず、バカを繰り返す野党にはまったく期待を抱けません。