以下、私の腹立ち紛れの駄文です。もちろんフェイクてんこ盛りなので、該当者を探すような無駄はしないようにお願いします。
山登りをやっている頃、飲み水はパーティの共有財産であった。登山中の休憩時には、体力の弱い人の水筒から先に皆で飲みまわすのが慣例であった。
子供の頃からカブスカウトなどをやっていた私にとって、それは当たり前のことであり、疑問に思うことさえなかった。だから同じ水筒に直接、口をつけて飲みまわすことへの違和感などない。
しかし、潔癖症の人には辛いであろうことは容易に想像がつく。
特に一人っ子で育ち、親から蝶よ花よと大切に育てられた人には、水筒の回し飲みなんて、おぞましい蛮行にしか思えないのだろう。ついでに言えば、この回し飲みは男女共通なので、「いや~、間接キスなんて耐えられないわぁ~」と叫ぶ女子もいたかもしれない。幸い、私の周囲にはいなかった。
潔癖症の方の言い分というか理屈は分かり易いが、私は内心馬鹿じゃないのかと思っていた。
極々少数だが、過去にそのように水筒の回し飲みを拒否する人はいたが、それも短期間で終わった。当たり前である、炎天下の山中に、重い荷を背負って登山をしていれば、どうしたって水は文字通り命の水である。
理屈よりも先に生存本能が水を欲する。それまで自分は自身のコップで、自分だけ別の水筒から水を飲みますと宣言していた新人が、いつのまにやらみんなと水筒の水を回し飲みし始めるのに、さして時間はかからない。
私の在籍していたワンゲル部では、水は一年生から優先的に飲ませる。上下関係の厳しい部であったので、ちょっと意外でもあったが、これは理に適ったものであった。
山に馴れてくると、水は必要だが、それほど切迫しなくても登山は出来る。しかし、山に不慣れな新人の場合、登り始めて一時間もしないうちに、身体が、本能が水を求める。休憩時間が何よりも恋しくなり、ただの水道水である水筒の水が甘露としか感じなくなる。
潔癖症であろうとなかろうと、本能が水を欲して止まないので、水筒の回し飲みを受け入れざるを得ない。ちなみに、誰もそれを笑ったりしない。激しい登山中に、水を欲し、水を夢見るのは誰にでも経験があることだからだ。
そのような経験があるので、私はわりと潔癖症の方を馬鹿にしている。現実問題、あれは一種の恰好付けだと思っている。無意味な自己満足とさえ思っている。
なぜなら人間は、決して潔癖な生き物ではないからだ。人間の体表には、手足を問わず雑菌がいたるところに隠れ潜んでいる。それは黴であり、菌糸であり、微生物でもある。ウィルスだって存在している。
潔癖症の人は理解を拒否しているようだが、これらの雑菌は、人間に害を為すばかりではない。むしろ人間に有益な場合も少なくない。確かに人間に有害な雑菌も存在する。その一方で、その有害な雑菌を食べる雑菌も存在している。
人間の体表だけでも数百万の雑菌が存在している。そして体内には、その数十倍の雑菌が存在している。ピロリ菌のように有害なものもあれば、体内の有害物質を処理する有益な雑菌も多数存在している。人間という哺乳類は、雑菌と共棲することで生きてきたのが現実だ。
ところが、これを知識として理解しているようで、理解しないのが潔癖症の人である。清潔な自分に酔い痴れているのだろうと邪推している。
まぁ多くの場合、潔癖症の人は自分だけが清潔ならば、それで満足なのでさほど迷惑なものでもない。でも、潔癖症の家族、とりわけ母親が潔癖症の場合、子供たちは大変な目に遇うようだ。
あれはまだ私が十代の頃だ。当時は近所に子供が多く、夏になると公園で盆踊りを自治会主催でやっていた。夜しか在宅していない私であったが、丁度夏休みであったので、手伝いに駆り出された。
もっとも私に求められたのは、祭りの後始末、つまり片づけである。だから夜の9時以降からの役割なので、それまではノンビリと盆踊りを楽しんでいた。でも、別に踊っていた訳ではなく、屋台の駄菓子やら焼きそばなどを抱えて、食べ歩いていただけである。
私は高校を卒業してから、この地に引っ越してきたので、この辺りには幼馴染はいない。しかし高校の学区は同じ地域なので、高校の同級生ならば数人いた。ただ、親しくしていた奴は皆無で、単なる顔見知りの域を出ない。
だから同じ高校出身の同級生であるAと遭遇した時も、軽く挨拶しただけだ。クラスも部活もまったく違ったので、私は彼女のことはよく知らなかった。ただ、私は地味な割に知名度が高いので、Aの方から挨拶されて思い出した程度である。
知名度が高かったのは、成績が学年でトップクラスにもかかわらず遅刻の常習犯であり、生徒委員会の議長などもやっている癖に、喫煙飲酒の常習者という変わり者であったからだと思う。
ちなみにAのことは、顔だちの綺麗な娘さんとしか印象にない。だから彼女が潔癖症で、屋台の焼きそばとかに嫌悪感を示すことは、その時初めて知った。私が立ち食いしている焼きそばを不潔だと言ってきたのでウンザリした。まぁ別にAが不快だろうと、私は食べたいものは食べる主義なので、さっさとその場を立ち去った。
それから10年ほど経った。大学を卒業して働き出した私は、数か月で身体を壊し、一年近い入院生活の後に家に戻ってきた。治ったわけではなく、自宅療養に切り替わっただけ。食べて、薬を飲んで寝るだけの退屈な毎日だった。
だから近所で盆踊りが開かれた時も、「ウルサイなぁ」としか思わなかった。でも気分転換の必要性は感じていたので、盆踊りの会場へと行ってみることにした。盆踊りには興味がないけど、それでも聴こえてくる「東京音頭」に、なんとなく心が浮き立つから不思議だ。
盆踊り用の会場の周囲には、いつものように夜店が立ち並び、美味しそうな匂いが漂ってくる。焦げたソースの匂いに惹かれて、焼きそばの屋台に向かおうとすると、なにやら騒がしい。
騒ぎの中心に近づくと、子供を抱えた若い母親のヒステリックな怒声と、それに負けじと大声を上げる中年男性、仲介に入ろうとしている人たちの声で、なにがなんだか分からない騒ぎとなっていた。
よくよく見ると、その母親はAであった。私の記憶にはない歪んだ表情で、抱えた子供を盾ノして、周囲を威嚇している。なんなんだ?
私はその当時、免疫力が低い状態であったので、人混みのなかに入っていくのは躊躇われた。だから近づかず、迂回してアンズ飴と焼き鳥を買うと、早々にその場を立ち去った。
後日、噂話に詳しい近所の奥様方に訊いたところ、事の顛末がようやく分かった。子連れの若い母親(Aのことだと思う)が、焼きそばを欲しがる子供に向かって、他人が素手で作った不潔な食べ物はダメだと叱りつけた。それを耳にした焼きそば屋の屋台のオジサンが抗議したところ、ヒステリックにAが騒ぎ出した。それを止めようとした自治会の会長たちも入り混じり、大騒ぎになってしまったとの事。
Aの奴、なにやっているんだ?
この騒ぎは予想外に大きくなり、結局この年を最後に自治会主催の盆踊りはなくなってしまった。屋台の営業妨害との主張は当然だと思うが、当時の自治会長たちが、Aの主張に何故か同意して、屋台業者にビニールの手袋とマスクの着用を求めたことで猛反発を受け(当然だ)、それに共感した近辺の協賛企業からの寄付金停止となり、資金不足から盆踊りの開催が出来なくなったそうだ。
私に言わせれば、Aを出入り禁止にすれば良いだけのこと。保健所の許可を受けての営業をしている屋台業者からすれば、自治会の要求は無理難題でしかない。たしか、どこぞの団体の職員であったという当時の自治会長が、両者の折衷案だと分かったような、分かってない解決案に拘ったのも大きな原因であるらしい。
以来、この地区では盆踊りは行われていない。
私は盆踊りに拘りはないが、夏祭りがなくなったのは寂しいと思う。特に屋台のたいして美味くもないが、それでも心惹かれるジャンクな食べ物を食べれなくなったのが一番寂しい。
後年、同窓会などで小耳に挟んだ噂だと、Aは結婚後、離婚して子連れで戻ってきたようだが、その離婚の原因はAの行き過ぎた潔癖癖であったらしい。
私のような水筒の回し飲みをし、味噌汁に虫が飛びこんでも、さっとつまみ上げて放り出し、平然と飲んでしまうようながさつな人間には、潔癖症は理解の域を超える精神疾患にしか思えない。
人間、多少汚れているくらいが楽しくストレスなく生きられると思うのですがねぇ。
私は意地が悪い。
以前、時流に乗って書かれた本を、十数年たってから読み直して検証する意地悪オジサンである。
今回、まな板に載せたのは、カーター政権の安全保障担当補佐官であったZ・ブレジンスキー氏の書である。刊行当初のタイトルは「ブレジンスキーの世界はこう動く ~21世紀の地政戦略ゲーム」でした。
既に故人であり、刊行されて20年以上たつ書を取り上げる私も相当に意地悪だと思う。また予め書いておくと、私はカーター政権時代のアメリカの外交には、かなり否定的である。
たしか2000年頃に図書館で借りて読んだ記憶があるので、一応再読なのだが、実はまったく記憶に残っていなかった。さすがに読んでいるうちに、これどこかで読んだなと思いだす程度の内容であった。
にもかかわらず、私が感心したのは、ブレジンスキー氏の予測が概要では概ね合っていると判じて、そう間違いではないことだ。ただ読み違えていたのは、ロシアが資源大国として復活したことだろう。
それでも大筋としては、その予測は当たっていると私は思う。興味深かったのは、ロシアと西欧を分けるポイントとしてウクライナを挙げていたことだ。この視点は私にはなかった。またもう一つ、中央アジアの旧ソ連の衛星国をユーラシア・バルカンと称して紛争の危険地帯だと強く指摘していることだ。
いずれも、日本のマスコミがほとんど無視している地域だが、21世紀を考える上では重要は指標になると、改めて再確認できた。
ブレジンスキー氏といえば「ひ弱な花、日本」の著者として知られている。日本人としては、ちょっとプライドが傷つくが、ある意味真実だとも認めざるを得ない。その視点は、この著作でも代わっていないが、それでもアメリカの外交戦略の重要指標として、ドイツと日本を挙げている。それなりに評価しているようだが、肝心の日本人自身はその期待に応えられるかどうか、私は疑問だ。
最後に最も私が感心したのは、シナが対等の覇権国としてアメリカとの同盟を望んでいるとの指摘であった。アメリカとの友好関係のあるうちに、台湾を吸収合併するのが目的だとの指摘には、ちょっと感心した。幸い、アメリカはシナを対等だとは認めてないので、今のところ実現はしていない。
私が最初に読んだのは、多分30代の頃だと思うが、当時はそれほど感銘を受けなかった。どうやら私は目は、かなりの節穴のようだと認めざるを得ない。政治、時事関係の本で、再読して評価が高まったのは滅多にない。その意味でも、もう一度精読してみたいと思っています。
どうやら日本はキャッシュレス社会にはならずに済みそうだ。
私は元々現金信仰が強いし、クレジットカードには苦労したのでもう使わない。だから昨年の消費税増税に合わせたかのようなキャッシュレスの流行には、いささか冷ややかに見ていた。
とはいえ、仕事ではキャッシュレス決裁の導入を顧客に勧めることには躊躇わなかった。実際、キャッシュレス決済の導入で売り上げを伸ばした顧客もけっこうある。
だが、一年近くたち、キャッシュレス導入後の経理状況をみていると、やはりいささか疑問が生じる。6月まではポイントというか補助が出るので、キャッシュレス決裁会社への手数料は低額で済む。しかし、補助がなくなってしまえば、残るのは高額な手数料だ。
業種というか利益率にもよるが、3%近い手数料は零細事業者にはかなりの負担だ。特に薄利多売でやっているところは無理だと思う。言いだしっぺのソフトバンクなどはキャンペーンの延長などで顧客をつなぎとめているようだが、キャッシュレス決済会社もそろそろ厳しいと思う。
事実、公表されているだけでも、このキャッシュレス化導入のためのキャンペーンで大幅赤字を計上してる。既に撤退を決めた会社もあるし、それは今後も続くと思う。多分数年後には2~3社しか生き残れないと思う。
私はそれほど海外のキャッシュレス化に詳しい訳ではないが、おそらくオーストラリアのように手数料を法律で上限を決めるなどしないと、完全な普及は難しいと思う。
これは私の偏見だと思うけど、キャッシュレスを薦める国って、通貨とりわけ紙幣の信用度が低い国が多い。つまり贋札が数多く流通している社会では、キャッシュレス化には相応のメリットがある。
しかし、日本は世界的にみても通貨の信用度が高い。定期的に紙幣も通貨も更新しているうえ、その製造技術は高く、贋札造りはわりに合わないとまで言われる完成度の高さを誇る。
さらに付け加えるならば、日本は災害大国だ。電気が止まれば、キャッシュレス決裁は出来ない。やはり現金の手持ちはある程度必要だと思います。
昨年以来、マスコミではさんざんキャッシュレス社会の到来に出遅れるなとの広告記事があふれていました。最近になってようやく、批判的な記事が出回るようになりました。
かくいう私自身、自分のことに関してはキャッシュレス否定派でしたが、仕事関連ではむしろ推奨派であったのは事実です。ここは恥を忍んで、堂々キャッシュレス決済の否定的な面も話してはいけないと自覚している次第。
さて、どの面下げて顧客回りをするかな・・・ちょっと気が重いけど、これはやらねばならぬこと。堂々と頭下げてきます。
跳弾という言葉をご存じだろうか。
銃から発射された弾丸が、命中した後、跳ね返ってしまうことは良くある。この跳ね返った銃弾のことを跳弾と呼ぶ。
実はこの跳弾、非常に厄介な存在で、どこに跳ね飛ぶのかは神のみぞ知る。
少し前に読んだFBIの犯罪科学研究所について書かれた本でも、跳弾に関する想像を超えた現象が幾つも取り上げられていた。その例を一つ紹介したい。
小銃で頭部を撃たれた被害者が、何故か生き残った。たしかに銃弾が頭部に命中しているのだが、なんと頭蓋骨の周辺を沿うように跳弾が体内を通過して、最終的には首を抜けて左手の手首で跳弾が発見された。
いったい、何故にそのような結果になったのか、警察はもちろんFBIの研究者にも分からなかったそうだ。他にも有名なところでは、あのケネディ大統領を暗殺した銃弾も、大統領に命中した後、とんでもないところで発見されている。興味がある方は是非、ご自身で調べて欲しい。
ところで数年前のことだが、北海道の某所でヒグマが出没した。警察の依頼もあり、地元の猟友会の会長がヒグマを射殺した。ところが、そのヒグマに命中した銃弾が跳弾と化して、無関係な建物を傷つけた。
さっそく建物の所有者から苦情が警察に出て、その猟友会の会長の銃の所有免許が取り消された。この免許、一度取り消されると、10年は再取得できない代物である。
確認しておくが、警察が同行しており、その場でヒグマを射殺しているのである。その時の銃弾が跳弾と化して、無関係な建物に当たってしまったのである。
免許取り消しの理由は、本来の目的外の使用だそうだ。多分、事なかれ主義が蔓延する警察官僚が、跳弾のことも分からずに、とにかく処分してしまえとやらかしたのだろうと推測できる。
当然に件の猟友会の会長は怒り、現在訴訟中だと聞いている。そんな最中、またもやヒグマが街中に現れた。養鶏場を襲ったので駆除して欲しいと警察に連絡があり、いつものように地元の猟友会に協力を依頼した。
すると現れたのは、手ぶらの猟友会会長で、警察に猟銃保持の免許を取り消されたので、素手で対応するしか出来ないと説明。警察も慌てたが、他の猟友会のメンバーは警察への協力を拒否(まぁ、当然でしょう)。
銃器に無知な人もいると思うので一言書いておくと、警察が保有している拳銃ではヒグマはおろか、猪だって殺せはしない。機動隊は銃器を持たないので、後は自衛隊だろうが、指揮系統がまったく異なるので首相命令でもない限り軍隊は動かせない。
かくして今もヒグマは元気に街中のエサを漁っているようである。
免許を取り消して済ませた警察官僚は、どうやら逃げ回っているようで、今のところコメント無しである。こいつにヒグマ退治をやらせれば良いと思うのは、私だけではないと思いますね。
私は頑固なのか、固定概念に縛られがちである。
スーツならば革靴に手提げの鞄が定番だと思い込んでいた。けっこう頑なに守ってきたスタイルであるが、日ごろ書類を多数持ち歩くことが多く、皮の鞄では10年持たない。
そのうちノートPCを持ち歩く機会が増えると、皮の鞄よりもPC用の鞄が便利だと気が付いた。同時に、PCを入れてない時は、書類を入れられるので、皮の鞄に拘る必要がないと分かった。防水性は皮よりもナイロン製の鞄のほうが良いこともあり、ここ十年ほどは皮鞄は使わなくなった。
皮製よりもナイロン製のほうが軽いこともあり、また安いので気軽に買い替えるようになったことも大きな変化だ。
しかし、革靴だけは頑固に使い続けた。
良い革靴は、足に馴染むまでは少し痛いが、馴染めば非常に快適だ。手入れさえしっかりとすれば10年以上使っても、靴底の張替だけで使い続けることが出来る。
ところで私は足腰の頑丈さには少々自信があった。重い荷を担いで山々を登ってきたが、膝や腰に故障を負ったことがない。太ももやふくらはぎの筋肉も太く、脚力には自信があった。でも脚は速くない、あくまで頑丈なだけだ。
にもかかわらず、足首だけはちょっと弱い。これは私が高いところに登るのも好きだが、高いところから飛び降りるのも好きだったという難儀な性分であったからだ。要するに高いところから飛び降りて、踵の骨にヒビを入れたことが二回ほどある。
多分、これが原因だと思うが、私の足首は非常に柔らかい。他の関節が堅いのに、足首だけが異常に柔らかいのは、これしか原因が考えられない。脚は速くないと記したが、それは直線での走りの場合だ。逆にカーブを回るのは得意で、直線では勝てないはずの俊足のクラスメイトと競っても、カーブを回る時ならば同等以上に走れた。
ただ柔らかい分、踏ん張りが効かないのも確かで、私はしばしば足首を捻挫する。もう癖になっているほどに足首を挫きやすい。そのせいだと思うが、50代も半ばを過ぎると、革靴でこけることが偶にあった。スニーカーならば大丈夫なので、外では滑り易い革靴に少々困るようになった。
そこで以前から気になっていたビジネスシューズに兼用できるという謳い文句のウォーキングシューズを試してみることにした。外見のデザインは革靴とそう大差ない。しかし、靴族の柔らかなクッション機能が効いているので、歩きやすさが格段にいい。
おまけに非常に軽く、一発で気に入ってしまった。革靴に慣れ親しんだ私でも、やはりこの軽さとクッション性能の高さには抗しきれない。現在は買い足して、ほぼ毎日使っている。
ただ冠婚葬祭用には黒の革靴は必要かと考えて、これはしっかりと残してある。履きなれた革靴の良さは確かにある。この辺り、私はけっこう頑固だなァと思う。