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大雪の被害があちこちで出ている。特に山陰、北陸地方がひどいことのようだが、長野県も、北部はかなりの雪になりそうだと昨夜、天気予報が警戒を呼び掛けていた。もっとも同じ信州・長野県でも、この辺りは南信に属し、雪は昔からそれほどのことはない。事実、きょうも日が射している。ただ伊那谷は標高が700メートルくらいあるため、気温は低い。
遠い昔のまだ小学生だったころのことだが、現在よりも余程厳しい冬の朝、西山に朝日が射し朝焼けが始まる前から、凍り付いた道路を毎朝のようにワクワクして通う所があった。学校の校庭で、そこでスケートをするのが目的だった。
6年間、冬はスケートに夢中になった。上手なのもいたし、転んでばかりいたのもいた。ノロノロ、バタバタ、スイスイ、1周100メートルほどのリンクを男女入り乱れ、ミズスマシのようにグルグルとひたすら滑走するだけだが、それで飽きなかった。
最初のスケートは下駄に刃が付いた今では考えられないようなシロモノで、それを真田紐で足に縛り付けた。真田紐はかの真田幸村由来と教えられたが、それで足が痛くなるほど固く締め付けるのだ。
今は「クロス」と言うのかよく知らないが、当時は「ちどり」と呼んで、コーナーを曲がるには一段上級の技術が必要だったのだが、それには横滑りが大敵だった。スケートの刃の滑走面を平滑にして、エッジが鋭くなるようにと、ヤスリで試行錯誤しながらよく研いだものだ。
そうそう今でも忘れられないことがある。下駄スケートなら当然足袋を履いた。それでも滑り出しは冷たくて足先がチリチリと痛んだが、一度だけ、素足にスケートを履いて滑っているいる上級生を見かけたことがあった。ヒビワレ、シモヤケが普通だった時代の田舎の子供とはいえ、さすがにその時は驚いた。
東京で生活するようになって一度だけ、懐かしいスケートをする機会があった。しかしリンクは狭く、スケートはハーフとかホッケー用の刃で、そんなものでは信州育ちのスケーターには、かつての下駄スケートで滑るよりも物足りなかった。
さて昨夜、山沿いは雪だった。西山(=中央アルプス)はこの時期はほとんど中腹から雪雲の中で滅多に全容を見せない。入笠や法華道はあれからさらに積雪を増やしただろうが、それがどれほどかはまだ想像してみるだけでしかない。
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