そもそも石原は軍人志望ではなかったとの説がある。「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、松沢哲成は石原家の経済的理由が軍人志望の一因と推測している。貧乏ゆえ父親が陸軍幼年学校に入れたという。しかも幼年学校の学費を旧家、富樫治右衛門から援助してもらっていたが、その学費の一部を父親が自分の懐に入れていたと伝えられている。
莞爾は父親を嫌っていたとも書かれている。性格は幼少に形成される。石原莞爾の軍人として上官に対する遠慮のない態度や、反抗的な性格形成は、家庭環境から芽生えたのかも知れない。
石原の父親、啓介は巡査から後に警部になり分署長から署長までなった人で学問好きで「学者のおまわりさん」で通っていた。だが石原が幼年学校に入る頃は家庭が窮乏していたという。石原の兄弟は10人もいて、そのうち6人は幼少のうちに亡くなっている。
明治35年、石原は仙台陸軍幼年学校に入学した。同期生の横山臣平の話では石原は幼年学校第6期では抜群の成績で、いつも第2位を大きく引き離していたという。
幼年学校三年生の時の話。石原ら第6期の生徒が悩んでいた事は、週2回の図画の宿題提出だった。文官の教授は写生、つまり現地、現物を絵にする事は軍人として戦術教育上重要と考えて、この宿題を課した。
元々性格的に強引な教授で、強制的にこの宿題を出していた。週2回の図画の提出は、生徒達は時間がない上に、度々外出も出来ないので題材がない。全員困り果てていた。
ところが、ある日突然、石原はスケッチブックに自分の股間の一物をリアルに描き「便所において我が宝を写す」と題して提出した。
その絵を見た担当の文官教授は火のようにかんかんに怒って、職員会議で問題となった。さらに、石原の退学処分問題まで発展した。
その時、石原は退学を心配する級友達に「俺が退学になって皆が写生をさせられなくなれば目的を達したじゃないか」と平然としていたという。石原は後に将官になってからでも、突然退職願を出したりしている。また、日蓮宗を信奉し、軍人でありながら、その信条に日蓮宗に沿った考え方を組み入れていた。このようなことから、石原は軍人に左程固執していなかったのではないか、と推察されるのである。
幼年学校では、石原の処分をめぐり、退学を主張する教授(文官)とそれに反対する武官教官(軍人)とが対立するに至った。結局、校長が間に入り、退学処分はされなかった。
士官学校では石原は、語り継がれるような際立った逸話は残していない。黙々と勉強に励んだようである。 「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、350人中6位の成績で士官学校を卒業した。
士官学校を卒業した石原は原隊の山形歩兵第32連隊に見習士官として復帰した。21歳のときである。
連隊の将校団の宴席での話が残っている。当時の連隊長が「おい候補生飲め」と酌をしてくれた時、彼ははっきり「私は飲みません」とその盃を断ったという。連隊長は意外な面持ちで、「まあ飲め」と言った。すると石原は「飲みません」とさらに断った。連隊長もむきになって、さらに三度目に盃を勧めた。そのとき、石原は「飲まん」と怒鳴ったという。
それから石原はその連隊長に嫌われて、彼は少尉任官と同時に会津若松の歩兵第65連隊に飛ばされた。
莞爾は父親を嫌っていたとも書かれている。性格は幼少に形成される。石原莞爾の軍人として上官に対する遠慮のない態度や、反抗的な性格形成は、家庭環境から芽生えたのかも知れない。
石原の父親、啓介は巡査から後に警部になり分署長から署長までなった人で学問好きで「学者のおまわりさん」で通っていた。だが石原が幼年学校に入る頃は家庭が窮乏していたという。石原の兄弟は10人もいて、そのうち6人は幼少のうちに亡くなっている。
明治35年、石原は仙台陸軍幼年学校に入学した。同期生の横山臣平の話では石原は幼年学校第6期では抜群の成績で、いつも第2位を大きく引き離していたという。
幼年学校三年生の時の話。石原ら第6期の生徒が悩んでいた事は、週2回の図画の宿題提出だった。文官の教授は写生、つまり現地、現物を絵にする事は軍人として戦術教育上重要と考えて、この宿題を課した。
元々性格的に強引な教授で、強制的にこの宿題を出していた。週2回の図画の提出は、生徒達は時間がない上に、度々外出も出来ないので題材がない。全員困り果てていた。
ところが、ある日突然、石原はスケッチブックに自分の股間の一物をリアルに描き「便所において我が宝を写す」と題して提出した。
その絵を見た担当の文官教授は火のようにかんかんに怒って、職員会議で問題となった。さらに、石原の退学処分問題まで発展した。
その時、石原は退学を心配する級友達に「俺が退学になって皆が写生をさせられなくなれば目的を達したじゃないか」と平然としていたという。石原は後に将官になってからでも、突然退職願を出したりしている。また、日蓮宗を信奉し、軍人でありながら、その信条に日蓮宗に沿った考え方を組み入れていた。このようなことから、石原は軍人に左程固執していなかったのではないか、と推察されるのである。
幼年学校では、石原の処分をめぐり、退学を主張する教授(文官)とそれに反対する武官教官(軍人)とが対立するに至った。結局、校長が間に入り、退学処分はされなかった。
士官学校では石原は、語り継がれるような際立った逸話は残していない。黙々と勉強に励んだようである。 「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、350人中6位の成績で士官学校を卒業した。
士官学校を卒業した石原は原隊の山形歩兵第32連隊に見習士官として復帰した。21歳のときである。
連隊の将校団の宴席での話が残っている。当時の連隊長が「おい候補生飲め」と酌をしてくれた時、彼ははっきり「私は飲みません」とその盃を断ったという。連隊長は意外な面持ちで、「まあ飲め」と言った。すると石原は「飲みません」とさらに断った。連隊長もむきになって、さらに三度目に盃を勧めた。そのとき、石原は「飲まん」と怒鳴ったという。
それから石原はその連隊長に嫌われて、彼は少尉任官と同時に会津若松の歩兵第65連隊に飛ばされた。